苫米地式コーチング認定コーチ CoacH T <タケハラクニオ> ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学びながら九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

タグ:無分別

Q-099:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか? <後編>

 

 

Q:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか?

 

A:同様の質問をたくさんいただいています。子育て中の親に限らず、管理職やリーダーのポジションにいる人にとっても、「モチベーション」が切実なテーマだからだと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 ところで、Q-011で「人にhave toを仕掛けないためにはどうすればいいでしょうか?」という質問に回答いたしました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6681096.html

 

 そこでは4つのポイントを挙げました。その4つとは、

 

1)     まずは自身が自由意志でゴールを設定し、want toで生きること

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

2)     何がhave toを生みだすかを知り、それら(have toをうみだすもの)を人を支配する目的で使わないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

3)     不完全性定理や不確定性原理から導きだされる真実「この世に“絶対”はない」を忘れないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

4)     ゴールを重ねていくこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 …です。  

 

 

その4点をふまえた上で、今回は「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」と「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」という二点についてまとめてみたいと思います。

前編:「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18456079.html

 中編:「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」前半

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18576769.html

 

 

 …前回、「子どものwant toを大切にし続ける」ために大切なのは、親の価値観を絶対に押し付けないことであると書きました。

 ところが、親の価値観の刷り込みを防ぐことは、決して簡単ではありません。

 

 その理由の一つは、子どもが成長する際に自然と親の価値判断を受け継いでしまうからです。前々回(Q-097)の記事に書いたとおり、私たちは知らずに親のブリーフシステムを受け継いでいます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

 その受け継いだブリーフシステムを“正しい”と思うほど、過去に囚われることになります。過去に囚われたままでは、時代の変化は認識できません。細部がスコトーマに隠れるから。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 ポイントは「不完全性定理や不確定性原理から導きだされる真実『この世に“絶対”はない』を忘れないこと」。そのために釈迦の説いた縁起の理解や空(くう)の体感がとても役に立ちます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 なぜなら、抽象度が上がるから。

 (もちろん、抽象度が上がったから縁起や空がわかるともいえます。双方向です)

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 目の前のこと(モノ)を高い抽象度で捉えなおすことができるようなると、世界は激変します。すべてがシンプルにつながるような感覚です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7383761.html

 

 

 ところで、前回(Q-098)の最後に、「じつは、『無分別』を教え伝えること自体が、『子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?』という質問への回答になります」と書きましたが、その理由はわかりましたでしょうか?

 

 無分別とは「あるものと別のものを分け隔てない」ということです。その考え方は「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げる」こと。それは「犬」と「猫」を同じ「動物」とみる視点であり、「動物」と「植物」を同じ「生物」と理解できる力のことです。そして、その力は共感することを可能にします。

 

 その“共感力”は、価値観が違う(と感じる)人達や、あるいは住む世界がまったく違う(と思える)人たちとの間に共通のゴールを見いだすことを実現します。

 

つまり、無分別が世代や地域間の格差、もっといえば時空の隔たりを解決するのです。

 

 より高い抽象度で共感できる親は、子どもとゴールを重ねることができます。だから、「子どものwant toを大切にし続ける」ことができるようになるのです。過去に囚われずに。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

 私は、“より高次の世界”を志向し続ける生き方自体を、ブリーフとして、次世代に手渡したいと願っています。

 

 

 …以上が「子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか?」という御質問への回答です。

 

 御相談ありがとうございました。

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-関連記事-

 

PMⅠ-01-18~ “無敵”の意味

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 PMⅠ-07-09~ 「平成」という元号に埋め込まれたコード

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/16379886.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/16541640.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/16660261.html

 

 F-089~ 無人運転と自動運転の違い ~シーサイドライン逆走に思う~

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_369873.html

 

 

Q-098:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか? <中編>

 

 

Q:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか?

 

A:同様の質問をたくさんいただいています。子育て中の親に限らず、管理職やリーダーのポジションにいる人にとっても、「モチベーション」が切実なテーマだからだと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 ところで、Q-011で「人にhave toを仕掛けないためにはどうすればいいでしょうか?」という質問に回答いたしました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6681096.html

 

 そこでは4つのポイントを挙げました。その4つとは、

 

1)     まずは自身が自由意志でゴールを設定し、want toで生きること

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

2)     何がhave toを生みだすかを知り、それら(have toをうみだすもの)を人を支配する目的で使わないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

3)     不完全性定理や不確定性原理から導きだされる真実「この世に“絶対”はない」を忘れないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

4)     ゴールを重ねていくこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 です。  

 

 

その4点をふまえた上で、今回は「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」と「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」という二点についてまとめてみたいと思います。

前編:「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18456079.html

 

 

 次に「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」です。

 

 「子どものwant toを大切にし続ける」ために大切なのは、親の価値観を絶対に押し付けないことだと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9672735.html

 

 「私は子どもの意志を尊重している」「子どもに価値観を押し付けることはない」と自信がある方ほど、じつは、注意が必要です。その過信がhave toを生みだし、(生みだしたhave toを)ますますスコトーマに隠します。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 そもそも日本人が使う「家族」や「子育て」という言葉自体に、すでにhave toが潜んでいるのかもしれません。

 

 

 ちょうどこの原稿を仕上げている頃(2019722日)に、吉本興業の岡本昭彦社長が所属芸人の闇営業問題に関する会見を開きました。その会見は反社会的勢力が参加するパーティーに出席しギャラをもらっていた(しかも虚偽の報告をした)として解雇された芸人側の告発会見を受けてのもので、闇営業騒動後初めての会社側の公式会見でした。

 

 その会見については様々なメディアで取り上げられていますが、私がとても気になったのは「俺には全員をクビにする力がある」という自身の発言について、「冗談といいますか、和ませるといいますか」「家族というか身内というか、いいかげんにせえよと」「父親が息子に“勘当や”というつもりだった」と釈明したことです。

 

 家族、身内、父親、息子

 

これらの言葉を釈迦哲学で理解していれば問題はありません。しかし、儒教的に誤って解釈しているのならば大変危険です。その誤った解釈により、儒教的な「アプリオリ、かつ、絶対的な違い」、すなわち「差別」が強化されてしまうことになるからです。

 

日本の文化の多くは中国や朝鮮から伝わりました。例えば仏教でいうと、そのオリジンはインドの釈迦を祖とする哲学ですが、中国で儒教・道教と強く結びついた後に日本に伝来しています。よって、釈迦オリジナルの哲学は“中国化”されているといえます。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。「この世には初めから違い(=差別)がある」「その違い(差別)に従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

支配者や既得権益、今回のテーマでいうと父親は、この論理(差別思想)を使ってシステムを強化してきました。

 

人類の進化途上において、かつての社会は「権力を持つ者」(「父親」)がそれ以外の「下々の人々」(「家族」)を支配し搾取するという構造でした。

「下々の人々(子ども)にはそもそも権利はなく、それは支配者(父親)から一方的に与えられている」という理不尽なその構造は、“社会的洗脳”により民衆(家族)の潜在意識に植えつけられました。儒教的な「御恩と奉公」という言葉や吉本社長会見での「家族」の使われ方がそのいい例です。

 

長い闘争の歴史を経て、人類はより進化した構造を手に入れました。

そこでは権利は「アプリオリ(先験的)に、等しく、生じているもの」。「生来の違いなどなく、すべては(本質は)同じである」という思想は、2600年前に釈迦の縁起が示唆していたものでもあり、仏語でいう「無分別」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

「あるものと別のものを分け隔てない」というその考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」です。それは、「犬」と「猫」を同じ「動物」とみる視点であり、「動物」と「植物」を同じ「生物」と理解できる力といえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

その「無分別」の対極にある分別という概念の根底には、差別思想があります。

もしも「空観(くうがん)」がしっかりと維持されているのであれば、分別は許されます。「空(くう)」であることを十分に分かった上で、機能・役割により仮としての違いを見出すことは「区別」です。それは「差別」とは本質的に異なります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

親はその違いをしっかりと理解し、次世代にちゃんと伝えなければなりません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9817539.html

 

 

 じつは、「無分別」を教え伝えること自体が、「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」という質問への回答になります。

 

Q-099につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記―

「アプリオリ(先験的)に等しく生じているお互いの権利」を活用するために(そして、守りぬくために)、契約の概念とともに様々なルールが情報空間に生まれました。

例えば、簡単には解雇できないこともその一例で、それが現代の(本来あるべき)社会の姿です。「だまし討ち」など論外で、労働基準法はもちろん、憲法で保障された国民の権利そのものを侵害しています(日本国憲法第3章第27条)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628437.html

 

 現在、マナーやルール、モラルを通して自由を考察するシリーズ(シリーズ編第2弾)を連載中です。どうぞ御確認ください。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_368012.html

 

 

-関連記事-

The Power of Mind Ⅰ」第五章(目次):

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13077001.html

 

PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-13:仮説08)はびこる差別意識

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説08)はびこる差別意識

 

 私たち人間の情報処理は、基本的には現状維持を是としています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

 情報空間にも働くホメオスタシス(恒常性維持機能)が、過去の記憶でできあがった“自分”というイメージを強力に維持しようとします。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971818.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971956.html

 

 “自分”というイメージは、過去の記憶によりつくられたブリーフシステムであり、「関係によって浮かびあがってくるネットワーク(=自我)」ともいえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

いずれにせよ、“自分”は無意識下で現状維持を強く求めています。その現状維持という欲求は思考停止につながります。思考が停止してしまうと、ますます現状が強力に維持されます。その先に破滅が待っているのは明らかです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165658.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12794797.html
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html 

 

 

 病院の未来に強い危機感を感じていたのは私だけではありませんでした。法人内で唯一の機能・役割を担っていたベテラン職員は、ちょっとしたいざこざがきっかけで職場を追い出されることになりました。

 地域医療や業界に大きな禍根を残すことになる突然の情動的排除を目の当たりにし、私は重たい眩暈を感じました。それでもなんとかケースやプランを考察していると、経営陣の思考の根底にあるものに触れた気がしました。差別意識です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12658417.html

 

 

各施設の代表者を前にかつて理事長が語った言葉に、私は危うさを感じたことがあります。「職員は全員家族である」というものです。

「職員は全員家族である」と聞くと、ポジティブに感じる方が多いのではないかと思います。しかし、受け取り方によっては、それは危険な思想となります。

 

受け取る側が釈迦哲学で理解すれば大丈夫です。

しかし、儒教的に誤って解釈してしまうと問題が生じます。その誤った解釈により、儒教的な「アプリオリ、かつ、絶対的な違い」、すなわち「差別」が強化されてしまうことになるからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

法人の職員が取り組んでいた禅は中国から伝わり、鎌倉時代に日本国内に広がりました。そのオリジンはインドの釈迦を祖とする哲学ですが、中国で儒教・道教と強く結びついた後に日本に伝わりました。よって、釈迦オリジナルの哲学は“中国化”されています。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。「この世には初めから違い(=差別)がある」「その違い(差別)に従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

 

支配者や既得権益は、この論理(差別思想)を使ってシステムを強化してきました。

 

人類の進化途上において、かつての社会は「権力を持つ者」がそれ以外の「下々の人々」を支配し搾取するという構造でした。

「下々の人々にはそもそも権利はなく、それは支配者から一方的に与えられている」という理不尽なその構造は、“社会的洗脳”により民衆の潜在意識に植えつけられました。儒教的な「御恩と奉公」という言葉がそのいい例です。

 

長い闘争の歴史を経て、人類はより進化した構造を手に入れました。

そこでは権利は「アプリオリ(先験的)に、等しく、生じているもの」。「生来の違いなどなく、すべては(本質は)同じである」という思想は、2600年前に釈迦の縁起が示唆していたものでもあり、仏語でいう「無分別」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

「あるものと別のものを分け隔てない」というその考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」。「犬」と「猫」を同じ「動物」とみる視点であり、「動物」と「植物」を同じ「生物」と理解できる力です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

「アプリオリ(先験的)に等しく生じているお互いの権利」を活用するために(そして、守りぬくために)、契約の概念とともに様々なルールが情報空間に生まれました。

例えば、簡単には解雇できないこともその一例で、それが現代の(本来あるべき)社会の姿です。「だまし討ち」など論外で、労働基準法はもちろん、憲法で保障された国民の権利そのものを侵害しています(日本国憲法第3章第27条)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628437.html

 

 

 しかしながら、釈迦やイエスといった人類を代表する天才たちは、はるか昔から、その契約やルールであらわされる論理空間さえも超越していました。それが、釈迦のいう「縁起(大乗でいう空観)」であり、イエスのいう「神の無償の愛」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html

 

いつか人類は、抽象度を上げた結果として、オリジナルの釈迦やイエスが体感した世界に到達するはずです。ところが、地球規模でも、日本国内でも、そして身近なコミュニティにおいても、抽象度を上げるヒルクライミングとは真逆の方向の退化(劣化)が、すさまじい勢いで進んでいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

例えば、「アメリカファースト」や「都民ファースト」というのは、「アメリカとそれ以外」「都民とそれ以外」とに分別し、利害関係の中で対立を生みだす考え方です。それは「無分別」とは正反対で、抽象度が下がっています。日本国民を「私たち」と「こんな人たち」に分けて、「私たちは、こんな人たちに負けるわけにいかない」と発言するのも同じです。

いずれも空観がしっかりと維持されていれば問題はないはずですが、空(くう)が抜けていれば(つまり、儒教などアプリオリを前提とする思想であれば)とても危険です。

 

その対立を生む(空を欠いた)思考の根底には、分別を是とする差別思想がはびこっています。

 

繰り返しますが、分別が許されるのは「空観」がしっかりと維持されている場合だけです。「空」であることを十分に分かった上で、機能・役割により仮としての違いを見出すことは「区別」です。それは「差別」とは本質的に異なります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 リーダーはその違いをしっかりと理解した上で必要に応じて区別を行いますが、差別は絶対に行いません。リーダーのマインドは常に無分別です。

 

 

<仮説08:人類の進化とは真逆の抽象度を下げる思想が跋扈し、対立を生みだしている。それは身近なコミュニティでも、国家単位でもおこっている>

 

<トゥイーキング08:空仮中に立ちかえり差別と区別の違いを理解する。その上で無分別を実践する>

 

    「あるものと別のものを分け隔てない」という考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」

    しかし、現代社会はそれとは真逆の方向に動いている。対立を生む社会の根底にあるものは差別意識。私たちはその事実に気づき、無分別に取り組まなければならない

    そのために縁起の理解や、空観・仮観・中観の実践が重要

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13215570.html

 

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-22現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

西洋の現代分析哲学を用いて「自我=私」を定義することで自由の意味を考えると、どのようにいえるでしょうか?

 

前回は、部分関数を使って「自我=私」を定義しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10543825.html

 

「自我=私」は、評価関数を使って定義することもできます。

 

評価関数とは、「自分にとっての重要度で宇宙を並べかえる関数」です。

前回は「私」を定義するために、「私の家族は○○」「私の仕事は○○」などと考えましたが、それは自分にとって重要なものを取り上げ、その順番で(自分の)宇宙を決めていることといえます。

この時の重要性の順番が、「私」を定義することになります。

 

 ここまで何度も述べてきたとおり、「評価関数」のほとんどが親の影響により決められています。具体的には「情動を伴った体験の記憶」と「抽象化された情報の記憶」です。

表現を変えると、「人は、過去の記憶によって、他人に作られている」といえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

ここで、抽象度を考えます。

現代分析哲学において、情報量の大小で概念を階層化する際に、情報量の少ない状態を「抽象度が高い」と表現し、情報量が多い状態を「抽象度が低い」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

抽象度とは、パソコンのフォルダ(階層)構造のようなものです。より大きいフォルダを作ることが「抽象度を上げる」ということです。例えば、<犬、猫、動物>という集合を考えたとき、抽象度で考えると「犬」と「猫」は同じ抽象度の階層にあり、「動物」はひとつ上の抽象度にあると考えることができます。

 

「猫より犬が好き」な人は「犬」を「猫」より重要と考える、つまり「犬」と「猫」を分別する「自我」で宇宙を並べかえています。このときに「犬」と「猫」を分別せず、抽象度を上げて「動物」と考えられる人は、自由度もひとつ上がっているといえます。

 

「犬か?、猫か?」というこだわりがなくなることで、マインド(脳と心)が解放され、思考が自由にできるようになるのです。

 

二つのもののどちらがより重要かという評価をなくしていくこと

 

これが自由になる秘密です。そして、それは「“無敵”になること」ともいえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

「自我=私」について考える時に「部分関数」や「評価関数」を抽象度を上げて捉えなおすことが重要です。

 

「私」の抽象度を上げ、「私」の定義を広げていく生き方こそが、現代分析哲学が示唆する“自由な生き方”といえます。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 


このページのトップヘ