苫米地式認定コーチ CoacH T(タケハラクニオ) ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学びながら九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

タグ:マナー・ルール・モラル

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-18:良心に従い、フェアネス、そして自由を追求する生き方

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察しました。今回が最終回です。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

私たちは洗脳から逃れることは絶対にできない

 

 だからこそ、「マナーやルールに縛られないが、モラルには反しない生き方」を追求することが重要だといえます。前頭前野内側部を活性化させながら抽象度をさらに上げていき、「社会的情動(感性)」の次元で生きる(生きようとする)

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 

私はそんな生き方を可能にするのが“中観”だと思っています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 以下、苫米地博士とヨーガ行者 成瀬雅春さんの共著「瞑想と認知科学の教室」(CYZO)からの引用です。

 

 苫米地博士- ともかく、釈迦は社会の役に立つなら、大きな煩悩はかまわないという考えだったのね。そもそも社会の役に立つっていうのがそのまま大きな煩悩なんだからさ。ただし、社会の役に立とうと思った瞬間にルールが必要になるのよ。判断の基準が。だって、そうでしょう。隣の人の役に立とうと思った時に「殺してやるほうがいいかもしれない」ってポアの思想になったら困るわけだ。「彼は私から見て悪人だ。これ以上、悪いことを続けるんだったら早めに殺してやらないと悪いところに転生しちゃうんで、いま殺してやろう。それもできるだけ苦しめて殺してやろう」っていうのがポアの思想。死に方が苦しければ苦しいほどカルマ(悪業)が清算されるから転生した時にいいところに行きやすいのね。でも、そういうことはマズいでしょ?

 だから、外の世界に興味を持った瞬間に客観的なルールを作りましょうになるのよ。それが八正道っていうのね。正しいモノの考え方、正しいモノの見方を教えているわけ。だけど、何が正しいかは釈迦は何も言ってないのね。

引用終わり

 

 外の世界に興味を持った瞬間に客観的なルールを作りましょうになる

 釈迦は正しいモノの考え方正しいモノの見方を教えている

 だけど、何が正しいかは釈迦は何も言っていない

 

 何が正しいのか?

 

その答えを導くものがモラルだといえます。モラルとは、感性(社会的情動)であり、良心。それは「バイオパワーを生みだすもの」であると同時に、「バイオパワーに打ち克つもの」でもあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 では、その良心を生みだすものとは何でしょうか?

 

 苫米地博士は「脳の呪縛を解く方法」(KADOKAWA/中経出版)の中で、「良心を生みだすものは『見られている』という感覚」と書かれています。

 

 宗教の成り立ちを考えるとわかるように、これまでの人類にとって「見ている者」とは神でした。しかし、不完全性定理が証明された現代において神は不在です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

 そこで各自が「新たな神」を見いだすツールとなるものがコーチングといえます。ゴール設定によって創造された「未来の私」「ゴールを達成した私」がその人にとっての神です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

そして、その神の存在の確信(未来でゴールを達成した私という存在の確信、=エフィカシー)が、時間の流れを生みだします。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

 神(ゴールを達成した未来の私)は、より高い抽象度次元に存在しています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

その神(ゴールを達成した未来の私)が「見守ってくれている」という感覚が、エネルギーを生みだし、創造性を引きだし、安心を与えるのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 良心に従え!

 

 その良心とは「未来の私」のブリーフシステム。そして、自由なマインドが生みだす新たな可能性です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

可能性は、人生の様々な領域でゴールへと結実し、どんどん現実化していきます。新たなゴールがバランスホイールすべてに広がり更新されていくたびに、さらなる可能性の扉が開かれます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

そんなダイナミックに紡がれる縁起の帰結として、“今、ここ”に、“私”が存在するのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 モラルとは良心。そして、それは本当の私のこと

 

 その私を縛るルールは、本当はたった一つだけ。フェアネスです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987618.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11142365.html

 

 今の日本の政治はフェアネスが失われています。いや、世界中でフェアネスが失われています。その象徴が「○○ファースト」や「忖度」という言葉です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

マナー、ルール、モラルを考え抜くことは、“私”を徹底的に探求することです。その過程で真の自由を手に入れ、「生と死のあいだにあるもの」を見つけ、そしてスピリチュアルペインを克服していきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293317.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_318161.html

 

 ゴールを達成した未来の私=良心に従い、フェアネス、そして自由を追求していきましょう。誰もがそんな人生を全うするようになったとき、人類は“無敵”となり、世界は平和を手に入れているはずです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~ (完)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

脳の呪縛を解く方法

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-17:洗脳ではなく教育であり続けるための大切な問い

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 過去3回の記事では「マナーやルールに潜む罠」について考察しました。

 罠-1http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html

 罠-2http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19370962.html

 罠-3http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19477029.html

 

 それらの罠にはまると自由を失います。そして、誰もが本来持っているエネルギーや創造性を徐々に奪われていきます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 反対に、マナーやルールにとらわれることなく、自らの意志で設定(更新)したゴールに向かって生き続けると、自由を貫くことができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 その「ゴールに向かって自由を貫く生き方」こそが、前頭前野内側部の活性化を実現し、さらに抽象度を高めていくことを可能とし、そして、社会的情動の次元へと至る扉を開きます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

社会的情動の次元がコンフォートゾーンになると、ごく自然にモラルを堅持することができるはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

 S-02-13にまとめたとおり、「前頭前野内側部を活性化させながら抽象度をさらに上げていき、社会的情動(感性)の次元で生きる(生きようとする)」ことが、21世紀の人類にふさわしい生き方です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 

 そのような大切な生き方を次世代に伝えることが教育の重要な機能。そして、自らがそんな生き方に挑戦しながら子どもたちにしっかりと示すことが親や教師の役割です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 以下、苫米地英人博士の「現代洗脳のカラクリ」(ビジネス社)から引用します。

 

洗脳されることに慣れている私たち

私たちが批判的に物事を見ることができない理由は洗脳されることに慣れていることに起因します。

ここで、「いやいや、私はこれまで一度も洗脳されたことがない」と思ったら、要注意です。

事実はその逆で私たちは誰でも洗脳経験者ですし、洗脳されることで成長してきたと言っても過言ではないくらいなのです。

実は、私たちにとって最も身近な洗脳者は親であり、洗脳機関は学校です。

教育こそが私たちが最初に経験する洗脳になります。

覚えているでしょうか?

本書の冒頭部分で、「私たちは洗脳から逃れることは絶対にできないのです」と書きました。

それは私たちが洗脳されることによって人格を形成してきたからです。親からの洗脳、教師からの洗脳、社会からの洗脳によって私たちは人間社会における生き方を学んできました。

勉強しなさい。社会のルールを守りなさい。働きなさい。人には優しくしなさい、などなど。

こういったことが重要だと刷り込まれることで、私たちは社会生活を円滑に進めることができるようになります。人間社会のほうでも構成員の一人ひとりが社会のルールを覚えてくれることで初めて成り立ちます。

もちろん、これは悪いことではありません。

しかし、一人の人間をルールが遵守できるように仕立て上げることは基本的に洗脳と変わりません。

では、洗脳と教育を分ける境目は何でしょうか?

それは本人の利益になっているか、本人以外の第三者の利益になっているか、です。情報操作の結果が本人にとって利益となるのであれば洗脳とは言わず、教育となるわけです。

ただし、やり方そのものは教育も洗脳も大差ありませんから、私たちが洗脳経験者であることは動かしがたい事実なのです。

引用終わり

 

私たちは洗脳から逃れることは絶対にできない

 

 よって、親や教師は、「本当に本人の利益になっているか?」「本人以外の第三者の利益になっていないか?」と自ら問い続けなければなりません。

 その上で「抽象度を高める」生き方をその問いとともに伝授することができれば、子どもたちは自然に人間形成の階段を駆け上がっていくはずです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

マナーやルールに縛られることなく、100%want toで。自由を貫きながら、モラルに反することなく。

 

 (S-02-18につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

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 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

PMⅠ第五章「苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ」目次

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13077001.html

 

 

現代洗脳のカラクリ



ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-16:マナーやルールに潜む罠 -3

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

S-02-13の最後にこんな問題をだしました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 

Q:「モラル」はみんなで遵守する前提で、理想的な生き方は下記のうちどれでしょうか?

 

A:マナー違反もルール違反もしない

B:マナー違反はすることがあるが、ルール違反はしない

C:マナー違反はしないが、ルール違反はすることがある

D:マナー違反もルール違反もすることがある

 

模範解答としては「A」ですが、意識状態(あるいは人生に臨む態度)としての理想的な生き方は、じつは、「D」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

その理由は大きく3つあります。

 

1つ目は、「want to」が「have to」になるから

2つ目は、(とくにルールの話ですが)論理で考えるということは物事を相対化することであるから

そして、3つ目は、マナーやルールは圧倒的に権力者(既得権益)に有利につくられているから

です。         

 

それぞれを解説します。

 罠-1http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html

 罠-2http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19370962.html

 

 

<3>    マナーやルールは圧倒的に権力者に有利につくられ、権力の暴走につながる

 

 昨年(20185月)、日本大学アメリカンフットボール部の選手が悪質な反則プレーを行った問題がクローズアップされました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9815429.html

 

その後も、相撲、サッカー、レスリング、アメリカンフットボール、ボクシング、体操とスポーツ業界で不祥事が続きました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9033937.html

 

少し前には所属芸人の闇営業問題で揺れた吉本興業 岡本昭彦社長の「俺には全員をクビにする力がある」という発言に批判が集まりました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18576769.html

 

最近の話題として、テコンドー協会の選手集団ボイコットがあげられます。オリンピック代表選考の一環としてテコンドー協会は9/17から強化選手を対象とした合宿を予定していましたが、招集された28人中26人が協会の方針に対する不満から不参加を表明しました。報道された内容からは、協会の絶対的権力が選手やコーチをhave toに陥れている様子が読み取れます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

どのケースにおいても、絶対的な権力(既得権益)が存在しています。そして、その権力に楯突く者を排除するという構図が垣間見えます。

見せしめ、嫌がらせ、誹謗中傷、左遷、解任、だまし討ち そんな権力の横暴を見せつけられた人たちは、最初は怒りを感じたとしても、やがては従うことを自ら選択します。その結果、エネルギーや創造性を徐々に失っていきます。憎しみ、苦しみの先にはダークサイドへの転落が待っています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11594310.html

 

 同じ構図は、皆さんのまわりにもたくさん存在するはずです。「社会はそんなもの」といった刷り込みや「逆らっても仕方がない」という諦めが、本来の思考を奪い、認識しづらくしてしまっているだけです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 差別思想・差別意識が引き起こした権力の暴走は、私自身も目の当たりにしました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

 権力による支配は、身近なコミュニティから国家規模まで、あらゆるところで行われています。さらにはルール変更を重ねることで、ますます強化されています。

 

 なぜ社会保障費は抑制が前提なのに、防衛費はどんどん膨張しているのでしょうか?

 なぜ復興のためにオリンピックが開催されるのでしょうか?

 なぜ日本にカジノが必要なのでしょうか?

 なぜ水道法が改正され、種子法は廃止となったのでしょうか? 

 

世界はダイナミックに変化しています。その変化は既得権益にとって都合のいい方向に静かに誘導されています。それは過去の記憶でつくられたコンフォートゾーンがますます強化されることでもあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

その強力なツールとして「マナー」や「ルール」が生みだされています。ときに自然発生的(生権力)に、おおくは恣意的(主権力)に

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

それでも自由に生ききるためにゴールが必要です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

自分自身で設定したゴール(未来)が生みだす「モラル」に従って生きることが、本当の自由な生き方。釈迦はそんな生き様を「自帰依自灯明」と表現しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

自由に生き続けると、マナー違反をすることも、ルールを破ることも、起こりうるかもしれません。その結果さえ「自己責任」として余裕で受け入れる勇気と平静さが、真の幸福と平和を生みだします。自由に生きる人の心の中で。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

 (S-02-17につづく)

 

 

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ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-15:マナーやルールに潜む罠 -2

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

前々回(S-02-13)の最後にこんな問題をだしました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 

Q:「モラル」はみんなで遵守する前提で、理想的な生き方は下記のうちどれでしょうか?

 

A:マナー違反もルール違反もしない

B:マナー違反はすることがあるが、ルール違反はしない

C:マナー違反はしないが、ルール違反はすることがある

D:マナー違反もルール違反もすることがある

 

模範解答としては「A」ですが、意識状態(あるいは人生に臨む態度)としての理想的な生き方は、じつは、「D」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

その理由は大きく3つあります。

 

1つ目は、「want to」が「have to」になるから

2つ目は、(とくにルールの話ですが)論理で考えるということは物事を相対化することであるから

そして、3つ目は、マナーやルールは圧倒的に権力者(既得権益)に有利につくられているから

です。         

 

それぞれを解説します。

 罠-1http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html

 

 

<2>    論理で考えるということは物事を相対化することであり危険である

 

ルールは「論理空間」に存在します。

(論理空間に存在しない、あるいは論理的に破綻したルールもあります。それは別の機会に取り上げます)

 

論理空間には不完全性定理が働きます。つまり、“絶対に正しいルール”は存在しないのです。そして、世の中には決して相対化してはならないものがあります。例えば「命」がそのひとつです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

ところで、皆さんは「人を殺してはいけない理由」を子どもたちにどのように説明しますか?

 

子どもたちに教えるべきことは、「命を議論の対象にしてはいけない」です。鹿児島弁でいえば「ぎをゆな(議を言な)!」。人を殺してはいけない論理的な理由(説明)があるから人を殺してはいけないのではなく、ただただ「人を殺してはいけない」と教えるべきです。

そこには論理も理由もありません。「いけないものはいけない」のです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958415.html

 

S-02-11で御紹介したアインシュタインの言葉中にある「直観的な感情」「直観的な反発」は、脳幹部や大脳辺縁系処理の話ではありません。大脳辺縁系どころか、「人間を殺すことは良いことか悪いことか?」「どこからが残虐行為か?」「憎悪とは何か?」といった論理的な議論(ディベート)を前頭前野背外側部で徹底的に行うことまでも超越して、“直観的”に拒絶しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18911304.html

 

その“直観”とは、論理空間を超越した空間(次元)にアクセスしている状態を意味します。

  http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 

なぜ論理空間を超越しなければならないのかというと、「論理とは物事を相対化することだから」です。相対化した瞬間に「人を殺してもいい理由」が生まれる可能性が生じます。そして、論理空間には必ず“不完全性”が働きます。

そこに多数決などの数の論理が加われば、民主主義の名のもとに大量殺人が行われる可能性さえ生じます。「平和のために戦争を行う」選択が生じるのです。これはまさに、今、世界が直面している危機です。

 

言うまでもなく、私たちの意志決定のプロセスは民主主義です。民主主義の基本は徹底的な思考や自由な議論を通じてよりよい意思決定を行うこと。私が属するあるコミュニティではいまだに「組織票」という考えが残っていますが、それは民主主義を完全に否定するものです。

 

一人一票による多数決で意思決定が行われる場合に決して忘れてはならないのが、「マイノリティの方が、もしかしたら正しいかもしれない」という視点。この視点を忘れたデモクラシーは単なる数による圧政になり、権力者のさらなる暴走を許すことになります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

 (S-02-16につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

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-追記-

 民主主義に関連して、第16代米国大統領 エイブラハム・リンカーン(18091865年)が、1863年にペンシルベニア州ゲティスバーグの国立戦没者墓地の奉献式で行った演説から引用します。

 

 我々の目の前に残された偉大な事業に身をささげるべきは、むしろ我々自身なのである。

それは、名誉ある戦死者達が最後の力を振り絞って命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで我々がさらなる献身を決意することであり、戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神のもとで自由の新しい誕生を迎えるために、そして人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the peopleを決して消滅させないために、我々がここで固く決意することである

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

エイブラハム・リンカーン(wiki.)

エイブラハム・リンカーン

Wikipediaより引用





ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-14:マナーやルールに潜む罠 -1

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

前回(S-02-13)の最後にこんな問題をだしました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 

Q:「モラル」はみんなで遵守する前提で、理想的な生き方は下記のうちどれでしょうか?

 

A:マナー違反もルール違反もしない

B:マナー違反はすることがあるが、ルール違反はしない

C:マナー違反はしないが、ルール違反はすることがある

D:マナー違反もルール違反もすることがある

 

模範解答としては「A」ですが、意識状態(あるいは人生に臨む態度)としての理想的な生き方は、じつは、「D」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

その理由は大きく3つあります。

 

1つ目は、「want to」が「have to」になるから

2つ目は、(とくにルールの話ですが)論理で考えるということは物事を相対化することであるから

そして、3つ目は、マナーやルールは圧倒的に権力者(既得権益)に有利につくられているから

です。         

 

それぞれを解説します。

 

 

<1>    マナーやルールにより「want to」が「have to」になり、能力が発揮できなくなる

 

(これは説明するまでもないと思いますが)マナーやルールとは、「~しなければならない」「~してはならない」を決めることなので、必然的に無意識下に「have to」をつくることになります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

無意識下で「have to」化してしまうと、私たちは本来の潜在能力を発揮することができなくなります。私たちが本来の能力を存分に発揮できるのは「want to」の時。「want to」と「have to」の生産性の差は10年間で756倍です。

 

よって、「『want to』がまず先にあり、その後、マナーやルールとの関係を調整する」という思考パターンが重要になります。先にある「want to」とはゴールのこと。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

want to」を最優先することとマナーやルールを遵守することは、ちゃんと両立します。その時、鍵になるのが“抽象度の高さ”です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

つまり、抽象度を高める生き方こそが、「want to」を貫きながら、既存のマナーやルールとも対立しない自由な生き方といえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

私はそんな生き方こそが“無敵”だと信じています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

もし十分に抽象度を高めた人(社会)が既存のマナーやルールとぶつかる時は、そのマナーやルールの方が「時代遅れ」になっているといえます。私たちの進化・向上とは抽象度を上げることそのものだから。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

その時変えるべきなのは、「抽象度の高い人の生き方(社会のあり方)」ではなく、マナーやルールの方です。

 

 (S-02-15につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-13:マナー、ルール、モラルと理想的な生き方の関係は?

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

アルバート・アインシュタイン                

 

 

アインシュタインのこの言葉には、「人類全体が論理のさらに先(抽象度でいえばさらに上)にまで到達できる進化をとげてほしい」という強い願いが込められています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

前頭前野内側部を活性化させながら抽象度をさらに上げていき、「社会的情動(感性)」の次元で生きる(生きようとする)

 

それがアインシュタインが願った21世紀の人類にふさわしい生き方です。

 

 

今回のテーマでいうと、「マナー」とは大脳辺縁系のコントロールであり、それは「情動(感情)」の次元にあります。「ルール」は前頭前野背外側部のコントロールで、それは「論理」の次元にあります。

 

では、前頭前野内側部のコントロールであり、「社会的情動(感性)」の次元を表わす言葉とは何でしょうか?

 

 

私はその言葉、すなわち“超論理空間”にアクセスした状態を表現する言葉が「モラル」だと考えています。

 

「モラル」とは倫理観や良識のことです。それは状況により変化する「マナー」や「ルール」よりも不変的な価値観を含んでいます。抽象度が高い概念だからです。

 

 

「モラル」は、「道徳・道義的な」「教訓」などを意味する言葉が語源です。現実社会や実生活に対する態度や気持ちのありようをいい、法的根拠による強制力はもちません。

 

それは、人間相互の関係性において、「よりよい世界を実現するために共有するべき智慧」を表わしています。

 

不完全性定理をもちろん理解した上でも、「モラル」とは絶対的に守るべき(守られるべき)ものといえます。そのうえで「マナー」や「ルール」をダイナミックに運用する社会が理想的なのではないでしょうか。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

社会が「モラル」(のみ)をそのエネルギーの源にできるようなシステムを構築している

 

それが苫米地式認定コーチとしての私のゴールのひとつです。そのような社会構造上のシステム構築は、一人ひとりのマインドでの情報処理システムのアップデートからはじまります。

 

では、最後に問題です。

 

「モラル」はみんなで遵守するという前提で、理想的な生き方は次のうちどれでしょうか?

 

A:マナー違反もルール違反もしない

B:マナー違反はすることがあるが、ルール違反はしない

C:マナー違反はしないが、ルール違反はすることがある

D:マナー違反もルール違反もすることがある

 

 

いかがでしょうか?

おそらく多くの方が「A」と回答したはずです。

 

結果的に「A」となるのがbetterだと、もちろん、私も思います。

 

しかし、意識状態(あるいは人生に臨む態度)としての理想的な生き方は「D」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

次回以降、その理由についてまとめます。

 

 (S-02-14につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-12“超論理”を表現する言葉

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

このアインシュタインの“直観”は、論理空間をはるかに超えた空間(次元)へのアクセスにより生まれました。そこは“ひらめき”が生まれる超次元

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

 

そのアクセスを可能とするのは、前頭前野内側部の活性化(発火)です。

脳幹・大脳辺縁系の活性化は「情動(感情)」。前頭前野背外側部の活性化は「論理」。そして、前頭前野内側部の活性化が「社会的情動」または「感性」。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html

 

「情動(感情)」→「論理」→「社会的情動(感性)」という変化は、生命の進化そのものです。そして、それは抽象度が低い次元から高い次元への飛翔でもあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

前頭前野が発達した人類は、論理空間、そして超論理の空間へのアクセスが可能となり、他の生物とはまったく異なる存在に進化しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 

人類以外の生物は論理を駆使して他を説得することはできません。威嚇したり直接的に傷つけたりするなど、「情動(感情)」に働きかけることしかできないはずです。「他者を気遣う気持ちの表れ」であるマナーや「言語により具体化した“規制”」であるルールを遵守するはずがなく、そもそもそれらを認識・理解することすらできません。

 

S-02-06で取り上げた<遅刻を繰り返す専門職A>は、自分の思い通りにいかないと悪態をつき、「経営者を連れてこい!」など大声を上げてまわりを威嚇していたそうです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

物理空間で直接的に他者を傷つけてはいないかもしれませんが、生命の進化過程でいうと「サル・ゴリラ」レベルといえます。抽象度が低く「情動(感情)」の次元だからです。

 

S-02-09の<自分の都合で契約を一方的に破棄した専門職B>は<専門職A>よりは進化した存在です。「情動(感情)」をしっかりとコントロールしながら、自分の保身のために「論理」を用いようとしました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18684416.html

 

しかし、より高い視点で組織の中における自分とまわりとの関係性を認識し再構築することはできませんでした。抽象度が「自分中心」を超えられなかったから。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

「自分だけよければよい」という発想はスコトーマを生みだします。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html


その結果、さらなる進化・向上は不可能となります。けっして“無敵”にはなれないのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html


 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

 

アインシュタインのこの言葉には、「人類全体が論理のさらに先(抽象度でいえばさらに上)にまで到達できる進化をとげてほしい」「“無敵”になってほしい」という強い願いが込められているように感じました。

 

前頭前野内側部を活性化させながら抽象度をさらに上げていき、「社会的情動(感性)」の次元で生きる(生きようとする)

 

それがアインシュタインが願った21世紀の人類にふさわしい生き方です。

 

 

今回のテーマでいうと、「マナー」とは大脳辺縁系のコントロールであり、それは「情動(感情)」の次元にあります。「ルール」は前頭前野背外側部のコントロールで、それは「論理」の次元にあります。

 

では、前頭前野内側部のコントロールであり、「社会的情動(感性)」の次元を表わす言葉とは何でしょうか?

 

 

私はその言葉、すなわち“超論理空間”にアクセスした状態を表現する言葉が「モラル」だと考えています。

 

「モラル」とは倫理観や良識のことです。それは状況により変化する「マナー」や「ルール」よりも不変的な価値観を含んでいます。抽象度が高い概念だからです。

 

 (S-02-13につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-11:アインシュタインの“直観”の源

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

「ルール」を守ることはなによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

アルバート・アインシュタイン                

 

 

前回まで「マナー」と「ルール」について考察しました。

 

マナーとは「他者を気遣う」気持ちの表れであり“自主規制”。そして、言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”がルールでした。マナーもルールもシステム(あるいは社会)を成り立たせるために存在しています。

 

ルールは言語により具体化(あるいは明文化)されたものですから、その存在は論理空間にあります。脳機能でいうと前頭前野背外側野の働きです。

感情を司るのは大脳辺縁系です。それは魚類や爬虫類にもみられる、より原始的な脳の働きです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

アインシュタインが述べた「直観的な感情」「直観的な反発」は、大脳辺縁系的な感情や反発ではないはずです。なぜなら、原始的な感情だけでは「人間を殺すことがたまらなくいや」という思考は生まれず、「残虐行為」という概念はもちろんのこと、「憎悪」という情動自体が認識できないはずだからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

アインシュタインの「直観的な感情」「直観的な反発」は、脳幹部や大脳辺縁系処理の話ではありません。大脳辺縁系どころか、「人間を殺すことは良いことか悪いことか?」「どこからが残虐行為か?」「憎悪とは何か?」といった論理的な議論(ディベート)を前頭前野背外側部で徹底的に行うことまでも超越して“直観的”に拒絶しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

このアインシュタインの“直観”は、論理空間をはるかに超えた空間(次元)へのアクセスにより生まれました。そこは“ひらめき”が生まれる超次元

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

 

そのアクセスを可能とするのは、前頭前野内側部の活性化(発火)です。

脳幹・大脳辺縁系の活性化は「情動(感情)」。前頭前野背外側部の活性化は「論理」。そして、前頭前野内側部の活性化が「社会的情動」または「感性」。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html

 

「情動(感情)」→「論理」→「社会的情動(感性)」という変化は、生命の進化そのものです。そして、それは抽象度が低い次元から高い次元への飛翔でもあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

前頭前野が発達した人類は、論理空間、そして超論理の空間へのアクセスが可能となり、他の生物とはまったく異なる存在に進化しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 (S-02-12につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 PM-06-12:仮説07) 思考停止

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 

 

アインシュタイン&オッペンハイマー(Wiki)

アルベルト・アインシュタイン博士(&ロバート・オッペンハイマー)

Wikipediaより引用

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-10:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -後編-

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 前編はこちら

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18684416.html

 

 じつはこの事例も、S-02-06と同じクライアントの実体験をもとにしています(プライバシー保護のため変更を加えてあります)。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

専門職Bが退職した関連会社は、かなりの期間、その穴埋めができなかったそうです。その間は本社の4名の常勤専門職が日替わりで業務を代行したとのこと。

 

本社が困った時、専門職Bは「契約にない」ことを盾にサポートを断りました。その数カ月後、「契約にない」はずの自己都合退職をした専門職Bの穴埋めを、病み上がりの者を含む本社の4人が行いました。「契約にない」のに。

そして、専門職Bの一方的な退職は、会社の判断により、「ルール違反」から「ルール違反ではない」に変わりました。

 

私はこの話を伺ったとき、多忙にもかかわらず専門職Bの穴埋めを懸命に行っている本社社員を想像し、やりきれない思いに包まれました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

何かがおかしい

何かが足りない

 

「なぜおかしいのか?」「何が足りないのか?」それを考えていく過程で「マナー」や「ルール」のさらに上(先)にあるものが見えてきました。

それは「川崎国」や少年法に関する報道を見聞きするたびに感じたものでもあります。

 

次回、その“上(先)”に迫ります。

 

最後にアルバート・アインシュタインの言葉を紹介します。アインシュタインも同じようなものを感じていたのかもしれません。

 

 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

アルバート・アインシュタイン                

 

 

 (S-02-11につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

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シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-09:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -前編-

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

「ルール」を守ることはなによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 

では、次のケースで考えてみましょう。

 

case12:自分の都合で契約を一方的に破棄した専門職Bの場合>

あるグループ会社があります。その中核的な組織は様々な専門職で構成されています。その中でも特に重要なある専門職は全国的に不足しているため、なかなか人員確保ができません。そこでその組織では、本社勤務の4名に加え、同じ敷地内にある関連会社に勤務する形でさらに専門職B1年契約(更新)で雇っています。

ある時、本社勤務の専門職の一人が入院することになり、業務内容にゆとりのある専門職Bにその間の応援をお願いすることになりました。

ところが、専門職Bはこれを拒みます。「本社の手伝いは契約にない」という理由で。

専門職の配置をグループ全体で考えていた本部は、契約内容の見直しを行うことにしました。しかし、専門職Bとの契約更新期限までに準備が間に合わなかったため、次の年に持ち越すことになりました。

ところが、専門職Bは新たな契約期間中にもかかわらず、一方的に退職を申し出て、その1カ月後には姿を見せなくなりました。契約破棄による一方的な退職の翌月、専門職Bがライバル会社で働いていることが判明しました

 

このケースは「マナー違反」でしょうか? それとも「ルール違反」でしょうか?

 

 

このケースでは「ルール違反」かどうかは微妙です。

 

まず、本社で欠員がでたときに「本社の手伝いは契約にない」という理由で応援を断った事例ですが、専門職Bの立場で考えるとこれは正当な主張(クレーム)だといえます。もし強要されたなら“契約違反”を訴えることが可能なはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

困っている側からみるとやり切れないでしょうが、契約内容に改善の余地があることが問題の本質であり、怒りを専門職Bにぶつけることは“八つ当たり”です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12808542.html

 

では、専門職Bが新たな労働契約期間中に転職したことはどうなのでしょうか?

 

 

労働契約解除が労働者からの申し出によるものを「自己都合退職」といいます。他の退職の形態には「定年退職」「会社都合退職」がありますが、中途退職のほとんどは自己都合退職です。

 

今回のケースは「6カ月以上の期間をもって報酬を定めた雇用契約」に相当するので、民法第627条第3項により3カ月後に退職が成立します。期間の定めのある労働契約については、民法第628条により「原則として契約期間の満了まで退職することはできない」はずです。労働者が一方的に退職した場合には、損害賠償請求の対象になります。

 

よって、このケースでの専門職Bの退職は、退職を一方的に申し出た時点では「ルール違反」であり、損害賠償の対象です。

 

しかし、この関連会社は、この一方的な退職を受け入れました。その瞬間、双方が合意したとみなされ、「ルール違反」ではなくなります。それを「合意退職」といいます。

 

よって、このケースでは「ルール違反」かどうかは微妙といえます。

 

 (S-02-10につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-08:少年法が問いかけるもの

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

私たちはルールの本来の目的を忘れることがあってはなりません。

「ルールの本来の目的を忘れること」の一例として、「ルールを守りさえすればいい」という考え方があげられます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18455955.html

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

 

 

ここである事件について考えてみましょう。2015220日に川崎市の河川敷で中学1年生が殺害された事件です。

逮捕された少年たちは、テロ組織「IS(イスラム国)」になぞらえ、自らのチームを「川崎国」と名乗っていたそうです。地元で中高生を見つけるとこのように凄んでいたといいます。「俺らは法律関係ない。自分達のルールで動く。川崎国だ。逆らったら、生きたまま首を切るよ」

 

この少年たちは「ルール」を勘違いしていました。

 

社会の中で生きる以上、つまり他人との関係の中に存在している以上、私たちは何らかの「マナー」や「ルール」を守らなければなりません。社会に迷惑をかけながら「自分達のルールで動く」ことは許されません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

現に、この少年たちは、「自分達のルール」で人を殺したことにより逮捕されました。

 

未成年者の犯罪については少年法が適用されます。

「少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、原則として家庭裁判所により保護更生のための処置を下すことを規定する」とされており、家庭裁判所の判断により検察に逆送し刑事裁判に付さしめることもできますが、その場合においても不定期刑や量刑の緩和など様々な配慮が規定されています。

 

未成年者の犯罪に対してこのような配慮がなされるのは、「未成年者の人格の可塑性に着目しているため」とされています。可塑性(かそせい)とは、「固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質」のことですが(デジタル大辞泉)、この場合は「脳の神経回路網はその活動に応じて構造と機能を変化させる性質をもつ」という「脳可塑性(brain plasticity)」のことです(最新 心理学事典)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9367702.html

 

つまり、13才の少年の命を奪った少年たちは、「少年法」というルールにより逮捕・拘束されると同時に、未来の可能性を根拠に「少年法」によって守られていたのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

 

他者を気遣う気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”が「ルール」

「マナー」も「ルール」もシステム(社会)を成り立たせるために存在している

「ルール」は煩悩をコントロールして自分中心を克服するきっかけとなりえる

 

 

再度、考えてみましょう。

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

そして、人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 (S-02-09につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

川崎市中1男子生徒殺害事件をきっかけに少年法改正議論が盛り上がりました。例えば、その頃可決された18才以上に選挙権を与える法案と絡めて、「選挙権をもてばもう大人であり、少年法で保護すべき対象ではない」という主張(クレーム)が強まりました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

 皆さんはどのように考えますか?

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-07:ルールは“自分中心”を克服するためにある

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

この事例からわかることは「社会の中のさまざまなシステムは『ルール』で維持されている」ということ。

では、なぜ「ルール」が必要なのでしょうか?

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

 

答えは、「煩悩のコントロールのため」です。

 

“煩悩”とは、脳幹レベルや大脳辺縁系レベルでの情報処理のこと。簡単にいうと「自分だけがよければよい」という「自分中心」、いわゆる「自己チュー」のことです。

 

「自分中心」の人は、決して“本当の幸せ”を感じることができません。

 

人間関係に軋轢を生じ、自分自身の心の傷を深くしてしまい、そして、いつまでも変化(進化、向上)することができず、チームの足も引っ張ってしまう。さらには、“本当の幸せ”を感じることもできない悲しい生き方

 

それが「自分中心」という生き方です。その詳細は「人間関係」をテーマとしたシリーズ編第4弾で取り上げる予定です。

 

 

 「煩悩のコントロール」を「自分中心の克服」と捉えると、ルールは教育においてもとても大切な役割を果たすといえます。教育の目的は人間形成だからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 ただし、本来の役割を忘れてしまうと、ルールはかえって教育に弊害を与えるものとなってしまいます。子どもたちの自由を奪い取る破壊装置となってしまうから。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 私たちはルールの本来の目的を忘れることがあってはなりません。

 

 

他者を気遣う気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”が「ルール」

「マナー」も「ルール」もシステム(社会)を成り立たせるために存在している

「ルール」は煩悩をコントロールして自分中心を克服するきっかけとなりえる

 

 

「ルールの本来の目的を忘れること」の一例として、「ルールを守りさえすればいい」という考え方があげられます。

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

 

 (S-02-08につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

「マナー」や「ルール」に従わない人のことを「自由人」と表現することがあります。

しかしながら、それは完全な誤りです。自身の煩悩に支配されたままで、まったく自由ではないのだから。

この誤用も「ルールの本来の目的を忘れること」の一例です。

 

以下、ピーター・F・ドラッカー(19092005年)の言葉を紹介します。

 

自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。それは選択の責任である。権利ではなく義務である。真の自由は何かからの自由ではない。それでは特権に過ぎない。

自由とは、行うことと行わないこと、ある方法で行うことと他の方法で行うこと、ある信条をもつことと逆の信条をもつことからの選択である。楽しいどころか重荷である。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任である。

                             「産業人の自由」より

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 F-052~「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_268337.html

 


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