苫米地式コーチング認定コーチ CoacH T <タケハラクニオ> ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学び九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

カテゴリ:S:シリーズ編 > 02 マナー、ルール、モラルについて

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-00:はじめに(目次)

 

 「マナーポリス」という言葉を御存知ですか?

 

 正確な定義はわかりませんが、ネット情報を確認すると「自分(達)の価値観を一方的に押し付ける人」「“正しさ”に従おうとしない人を排除する人」という意味で使われています。肯定的な表現ではないようです。

 

 不完全性定理により宇宙は不完全であることが証明されました。そもそも「“絶対的”な基準」はありえず、「唯一の正しい答え」など存在しません。人の数だけ、あるいはコミュニティの数だけ“正しさ”が存在しうるといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

だからこそ「論理を学び、議論すること」が重要になります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

お互いがよりよく生きることができるように、議論を通じて、社会を構成する者同士が共有する約束事をつくりあげていきます。その結果、マナー、ルール、モラルといったものが生まれます。

 

大切なのは「お互いがよりよく生きるため」という目的が因で、マナー・ルール・モラルが果であるということ

 

議論については、ぜひシリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」を御参照ください。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 


 

 00:はじめに

 
 01:ケース別考察 -1
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17707498.html

 02:ケース別考察 -2
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17857553.html

 
 03:ケース別考察 -3
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17976928.html

 04:ケース別考察 -4
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18095809.html

 05:マナーとルールの定義
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18222665.html

 06:社会の様々なシステムは「ルール」で維持されている
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 07:ルールは“自分中心”を克服するためにある
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18455955.html

 08:少年法が問いかけるもの
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18576584.html

 09:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -前編-
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18684416.html

 10:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -後編-
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18797021.html

 11:アインシュタインの“直観”の源
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18911304.html

 12:“超論理”を表現する言葉
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19021726.html

 13:マナー、ルール、モラルと理想的な生き方の関係は?
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html

 14:マナーやルールに潜む罠 -1
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html

 15:マナーやルールに潜む罠 -2
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19370962.html

 16:マナーやルールに潜む罠 -3
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19477029.html

 17:洗脳ではなく教育であり続けるための大切な問い
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19572431.html

 18:良心に従い、フェアネス、そして自由を追求する生き方
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19678041.html

 (S-02-01につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

先日、駐車場の順番待ちを巡るトラブルで、割込みに激高したプロレスラーがヘッドロックをかけて相手に怪我を負わせるという事件が起こりました。警察の調べに対して容疑を認めたレスラーは、「ルールを守らない奴が嫌いだから頭にきてやった。やり過ぎた」と話したそうです。

 

「ルールを守らない奴 = 嫌い ← 頭にきた」という構図で暴力をふるい、「やり過ぎた」という理由で反省しています。

 

 「頭にきた」というのは認知的不協和。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

 そして、「暴力」は「駐車場の順番待ちというルール(マナー)を守る社会」というコンフォートゾーンを維持するためのホメオスタシスフィードバックと考えることができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971818.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971956.html

 

 しかし、ヘッドロックという行動により、レスラーは「人を傷つけてはいけないというルール」を犯してしまいました。「駐車場の順番待ちというルール(マナー)」を守り抜くために別のルールを犯してしまったのです。「やり過ぎた」のは一時的にIQが下がり冷静な判断ができなかったから。文字どおりファイト・オア・フライトの状態です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

 では、「人を傷つけてはいけないというルール」を守るために、「駐車場の順番待ちというルール(マナー)」を見過ごしたらどうなるでしょうか?

 

 一般的に理不尽感が強いほどストレスは大きくなります。無理に我慢することでレスラー自身の心身が傷ついてしまうかもしれません。心の傷がやがて脳の傷になることは科学的な事実です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10114934.html

 

さらに、ルール違反を誰もがスルーするようになると、社会自体が荒廃してしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10691753.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 

 皆さんならどうしますか?

 

 そのようなことも思索しながらお読みください。「Don’t think. Feel!」で(笑)。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-01ケース別考察 -1

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。
 ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

01:ケース別考察 -1

 

皆さんはマナーとは何か不思議に思ったことはありませんか?

 

ある場面(地域)では「良いマナー」だったことが、違う場面(地域)では「悪いマナー」として非難されたことはありませんか?

 

子供に「マナーとは何?」「ルールとはどう違うの?」と聞かれたらどのように答えますか?

 

まずは、いろいろなケースで考察してみましょう。

 

 

case 1> 
 食後にげっぷをしてしまった

 

「マナー違反」と感じる方が多いと思いますが、じつは中国では食後にげっぷをすることは儀礼に適っているのだそうです。よって、欧米では「マナー違反」、中国では「マナー違反ではない」ということになります。

 

たとえげっぷに厳しいアメリカであっても罰せられることはないでしょう。よって、「ルール違反ではない」と(たぶん)いえます。

 

もし、他に誰もいない状況であれば、マナー違反でもルール違反でもないはずです。

 

 

case 2

映画を見ているが、携帯電話の電源を切らず、マナーモードにもしていない

 

映画館であれば「マナー違反」です。

 

映画館の会員であり、同意した利用規約中に「映画中は携帯電話の電源は切る」ということが明示されていれば、上記行為は「ルール違反」といえます。実際に罰せられるかどうかはまた別の論理です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

もし、映画を見ているのが自宅であればどうでしょうか?

 

一緒に見ている人が嫌がれば「マナー違反」といえます。もしも「○○家の掟」みたいな共有する約束事があれば「ルール違反」にもなります。

 

先程のケースと同じく、他に誰もいない状況であれば、マナー違反でもルール違反でもありません。

 

 

case 3

会社内で上司とすれ違ったときに、(挨拶ではなく)会釈をした

 

これは相手(上司)の状況によります。

 

その上司が他の人(とくに社外の人)と会話中であったり、電話中であれば、声をだして挨拶することの方が「マナー違反」といえます。

 

一般的には部下が上司に挨拶や会釈をしないことは「マナー違反」だといえますが、たとえ会釈をしなかったとしても「ルール違反」となることはないでしょう。

 

 (S-02-02につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

ときどき教育現場での厳しい校則が話題になります。たとえ校則違反ではなかったとしても、学校で生徒が先生にあいさつや会釈をしなかったら、きっと怒られるでしょう。

そのように私に思わせるのは、情動記憶でつくられた(私の)ブリーフシステムです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-02ケース別考察 -2

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

02:ケース別考察 -2

 

皆さんはマナーやルールとは何か不思議に思ったことはありませんか?

まずは、いろいろなケースで考察してみましょう。

 01http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17707498.html

 

 

case 4

挨拶はいつも大声

 

これも状況しだいです。

 

例えば、医療・介護現場で、もうすぐ心肺停止となりそうな看取りの場面だったとします。そんな時に出勤したスタッフが次々に大声で(しかも明るく)挨拶したら、御家族はどのように感じるでしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

一般的には「マナー違反」だといえます。

ただし、家族の心理状態によっては、元気な挨拶の方が喜ばれる場合もあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

いずれにせよ、「ルール違反ではない」はずです。

 

 

case 5

職場の懇親会で他人が歌っている途中に壇上にあがり一緒に歌った

 

これも状況しだいです。先に歌っていた人が嫌がったら「マナー違反」です。喜んだら「マナー違反ではない」といえます。

 

先に歌っていた人が嫌がっていたとしても、その様子を見ているその他大勢が大喜びなら、大多数にとっては「マナー違反ではない」のかもしれません。

 

いずれにせよ、これも「ルール違反ではない」といえそうです。

 

 では先に歌っていた人が平社員で、壇上にあがり一緒に歌ったのが社長ならどうでしょう?

 

 もし先に歌っていた平社員が嫌がったなら、社長は「マナー違反」です。しかし、むしろ社長が飛び入りしたことを露骨に嫌がる平社員の方を、居合わせた人たちは「マナー違反」だと感じるかもしれません。

 

 

case 6

犬の散歩中、突然犬が暴走して、見知らぬ子どもを噛んでしまった

 

リードを放して犬をフリーにしていたのなら「マナー違反」です。

 

しっかりリードをしたままであれば「マナー違反ではない」といえますが、他者にけがを負わせた時点で「ルール違反」になります。

 

民法7181項により、動物の占有者は飼い犬が他人に与えた損害を賠償しなければなりません。同項のただし書きには「動物の種類および性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときはこの限りではない」という記載があります。

よって、裁判所に「相当の注意を払って管理していた」と認めてもらえれば、「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わります。

 

「ケガを負わせた」という事実(データ)は変わりませんが、根拠(ワラント)をひっくり返すことで主張(クレーム)が変わるということ。それをターンアラウンドと呼びます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

ちなみに、刑事責任が発生する余地もあります。飼い主の過失の程度により、過失傷害罪(刑法209条)や重過失傷害罪(刑法2111項後段)が考えられます。

 

 (S-02-03につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

 「もし先に歌っていた平社員が嫌がったなら、社長は『マナー違反』です。しかし、むしろ社長が飛び入りしたことを露骨に嫌がる平社員の方を、居合わせた人たちは『マナー違反』だと感じるかもしれません」

 

 これが政治の世界だったら、「ちゃんと忖度しろよ」と叱られるのでしょう。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040523.html

 

 そんなプレッシャーは「バイオパワー(生権力)」となり、人々からやる気と創造性を静かに奪い取っていきます。このシリーズの後半で掘り下げます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-03ケース別考察 -3

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

03:ケース別考察 -3

 

皆さんはマナーやルールとは何か不思議に思ったことはありませんか?

まずは、いろいろなケースで考察してみましょう。

 01http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17707498.html

 02http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17857553.html

 

 

case 7

スーパーに設置された「お客様用製氷機」から氷を大量に持ち帰った

 

他の客が不利益を被る程大量に持ち帰った場合は「マナー違反」です。

 

「ルール違反」といえるかどうかはグレーですが、スーパーで買い物をしていなかった場合は「ルール違反」を問われる可能性があるそうです。

実際、2014年にはスーパーの「無料」の氷を持ち帰った49歳の男性が「窃盗罪」で現行犯逮捕されています。

 

 

case 8

窃盗の被害を受けたお店が、防犯カメラに写った「犯人」に対して、「顔をネットで公開されたくなければ、指定した期限までに盗品を返還せよ」とネット上で警告

 

これも実際にあったケースです。当たり前のことですが、窃盗は「マナー違反」かつ「ルール違反」です。

 

その窃盗という罪を犯した「犯人」の素顔をネットで公開するとした被害者(お店)の行為は、大きな社会的議論を引き起こしました。皆さんはどのように考えますか?

 

 

マナーやルールを突き詰めると、自由と責任に行き着きます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958864.html

 

ネットでの素顔公開を「マナー違反」と考えた方々の根拠は、「犯罪の被害者が自ら被害回復を実行していくと、社会に大きな混乱をもたらす可能性がある」というものでした。報復するという被害者の自由に制限を加えるべきという考え方です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 

実際のケースでは、その店は素顔の公開を行いませんでした。マナーを守ったのです。もし公開を強行していたならば、(お店も)「ルール違反」になる可能性がありました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

お店は盗まれた商品について正当な権利を持っています。しかし、犯人の社会的評価(名誉)をおとしめるという手段でこの権利を回復しようとした場合、名誉棄損という「ルール違反」にあたります。

 

さらに、「正当な権利があっても、その権利行使に違法性が認められる場合には、全体が違法になる」というのが裁判所の考え方です。例えば、お金を貸した相手が返済しないからといって「借金を返さないとうちの若いもんが何をするのかわからないぞ」と脅して返済させた場合、お金を貸して(約束どおり)返済してもらった側が恐喝罪となります。

「盗品を返還しないとモザイクを外すぞ」と脅して盗品を取り返した場合、お店側が恐喝罪という「ルール違反」を犯したとみなされます。

 

ひょっとしたら、このケースでは「顔をネットで公開されたくなければ、指定した期限までに盗品を返還せよ」と警告した時点で「ルール違反」なのかもしれません。

しかし、実際には、マナーを守ったお店側に対して「ルール違反」は適用されませんでした。

 

 (S-02-04につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記1

 自由に生きるために必要な「ルール」について、下記記事にまとめています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987618.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11142365.html

 

 

-追記2

 「正当な権利があっても、その権利行使に違法性が認められる場合には、全体が違法になる」という考え方と似ているのが、ディベートにおけるK戦略(クリティーク、Kritik)。

その基本は「相手の前提となっている価値判断そのものを疑う」ことです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13076426.html

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-04ケース別考察 -4

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

04:ケース別考察 -4

 

皆さんはマナーやルールとは何か不思議に思ったことはありませんか?

まずは、いろいろなケースで考察してみましょう。

 01http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17707498.html

 02http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17857553.html

 03http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17976928.html

 

 

case 9

所有する畑を荒らしていたイノシシを捕獲。食用に自宅で解体した

 

これは「マナー違反ではない」かつ「ルール違反ではない」です。シカやクマを解体する場合もルール違反ではありません。

 

ところが、解体した動物が牛・馬・豚・羊・ヤギのいずれかであった場合は「ルール違反」になります。屠畜(とちく)場法違反です。

屠畜場法は食肉の安全を確保するための法律です。食用となる動物が適切に処理されることを目的として、屠畜場以外の場所で、食用目的で牛・馬・豚・羊・ヤギを屠殺(とさつ)・解体することを禁止しています。

 

イノシシ・シカ・クマは狩猟の対象となる動物であり、「屠畜場での解体が困難」という理由で対象から外れているのだそうです。

 

ちなみに、ニワトリは「食鳥処理の事業の規制及び食鳥検査に関する法律」により、指定場所での処理が定められています。ただし、屠畜場法と違って、規制は「不特定または多数へ提供する場合」に限られています。

家庭で家族にふるまうためにニワトリを解体する場合は「ルール違反ではない」のでご安心ください(笑)。

 

 

case10

大学時代のサークル仲間と久々に再開。二人で食事をしているうちに自分の気持ちに気がつき告白した。すると相手から「私もずっと好きだった。結婚してほしい」とまさかの逆プロポーズを受けた。早速、結婚を約束したことを同じサークル仲間に報告したら、お祝いのメッセージとともにたくさんのプレゼントが届いた。

ところが、後日、結婚を約束したはずの相手から「エイプリルフールの冗談だと思っていた。結婚話はジョークであることをすぐに周知してほしい」と連絡がきた

 

結婚の約束が確かに41日の出来事だったとしても、「結婚してほしい」と言われ喜んでいた側が精神的ショックを受けたのなら「ルール違反」を問われます。不法行為(民法709条)に基づく損害(慰謝料)賠償責任を負う可能性が考えられるそうです。

 

さらに、もしも発信者が上場しているベンチャー企業の有名社長で、相手が芸能人など著名人であった場合は、金融商品取引法158条の「風説の流布」にあたる可能性があります。株価に影響を与えようとしてデマ情報を流したと判断されたなら、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金に処せられます。かなり重い「ルール違反」です。

 

サークル仲間がどう判断するかにより、逆プロポーズ側が「マナー違反」になる場合もあれば、結婚を真に受け発信した方が「マナー違反」となる場合もあります(あるいは、両方とも「マナー違反」、ともに「マナー違反ではない」と思われる場合も)。

 

事実とは異なる話を信じて送ったプレゼントに関しては、民事上の不当利得の返還請求が可能なようです。同情され「マナー違反ではない」と判断されたとしても、もしもプレゼントを返さなかったら「ルール違反」となります。

ただし、プレゼントを購入した段階での損害賠償請求は難しいようです。「法は人の好意まで保護しないから」だそうです。



どうですか?

「マナー」や「ルール」がどんなものであるのかイメージできましたか?

 

なんかよくわかりませんよね(苦笑)。

少なくとも「マナー」や「ルール」は“絶対的なもの”ではなさそうです。不完全性が働くのですから当たり前ですが。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

次回は「マナー」や「ルール」について、これまで考察してきたことをまとめ、それぞれの定義を確認します。

 

 (S-02-05につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-05:マナーとルールの定義

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

前回まで身近な話題で「マナー」と「ルール」について考察しました。

01http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17707498.html

02http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17857553.html

03http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17976928.html

04http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18095809.html

 

 

その中で見えてきたポイントは、

 

〇 「マナー」も「ルール」も絶対的なものではなく、状況で解釈が変わりうる

 

〇 「マナー違反」は直接的には罰せられないが、「ルール違反」は罰せられることがある

 

〇 他人が嫌がれば「マナー違反」になる可能性がある

 

〇 「ルール」は言語により規定されている。それが法律の場合、その判断は裁判所で行われる

 

〇 「ルール」は“現実”に沿ってつくられている(変更されうる)   

 

などでした。  

 

 

では、改めて「マナー」と「ルール」について、その概念を確認してみましょう。

 

Wikipediaには、「マナーとは、行儀・作法のことを指す」とあり、その概要には「マナーの様式は多くの場合、堅苦しく感じられるが、その形は社会の中で人間が気持ちよく生活していくための知恵である。マナーは国や民族、文化、時代、宗教のさまざまな習慣によって形式が異なる。また、個人間でも価値観や捉え方による差異がある。『他者を気遣う』という気持ちを所作として形式化し、わかりやすくしたものが形式としてのマナーである」と記載されています。

 

つまり、マナーとは「他者を気遣う」気持ちの表れであり、各個人が自身の価値観により判断し、行動する“自主規制”のことのようです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

 

次は「ルール」ですが、Wikiで「ルール」を調べると「規則」に飛びます。

 

「規則」は「人の従うべき準則であり、主に文章によって規定されたものをいう。なお、規則に定められたものを原則(げんそく)、または本則(ほんそく)とも呼ばれ、規則に規定されていない事項については例外と称される。個別の名称にはさまざまなものがあり、規則のほかに規程、規定、規約、基準などがある。また、ある物事と別の物事の間に一定の関係が見られるとき、その関係を規則あるいは法則と言う」とあります。

 

 マナーに対してルールの方は、視点が「自分」から「他者との関係性」や「社会」といったものにまで広がっています。よって、ルールとは釈迦哲学でいえば縁起の視点で作られるものであり、より高い抽象度での(社会的)判断を求めるものといえそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 

 シンプルにまとめると、

 

「他者を気遣う」気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

 

言語により具体化し、かつ、“自主”を取り除いた社会全体で共有する“規制”が「ルール」

 

という感じでしょうか。

「ルール」の場合、違反に対して他者(あるいは社会)による罰が生じえます。

 

 (S-02-06につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-06:社会の様々なシステムは「ルール」で維持されている

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 マナーとルールをシンプルにまとめると、

 

「他者を気遣う」気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

 

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた社会全体で共有する“規制”が「ルール」

 

といえそうです。

「ルール」の場合、他者(あるいは社会)による罰が生じえます。

 

 

では、再度具体的な例で考えてみましょう。

 

case 11:遅刻を繰り返す専門職労働者Aの場合>

あるグループ会社があります。その中核的な組織は様々な専門職で構成されています。その中でも特に重要なある専門職は全国的に不足しているため、なかなか人員確保ができません。そこでその組織では、常勤の4名に加え、人材紹介会社に高額のフィーを払って、さらに1名の専門職を確保しています。

ところが、紹介された専門職Aは遅刻を繰り返します。時には2時間近くも遅刻するため、会社全体にまで悪影響が及んでしまいます。そのため重要かつ緊急な案件の場合は、常勤専門職が自身の業務を中断し、その派遣専門職Aの業務を代行しています。

それなのに遅刻を繰り返すAからは感謝どころか謝罪さえも一切ありません。さらには遅刻を注意されると逆ギレし周囲に当たり散らします

 

さて、このケースは、「マナー違反」でしょうか? それとも「ルール違反」でしょうか?

 

 

現実的にはありえない極端な例と思われたでしょうが、この事例はクライアントの実体験をもとにしています(プライバシー保護のため変更を加えてあります)。

当然ですが、このケースは「マナー違反」であり、かつ「ルール違反」です。

 

「マナー」とは「『他者を気遣う』気持ちの表れであり“自主規制”」でした。

 

どんなにうまく言い逃れしようが、遅刻を繰り返す行為には「『他者を気遣う』気持ち」はありません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

むしろ言い逃れするほど「『他者を気遣う』気持ちに欠けている」といえます。それは抽象度の低さの表れでもあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 心理学者 アブラハム・マズロー(19081970年)の「欲求階層説(自己実現理論)」でいうと、低層を抜け出せず成長ができていない状態です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

もちろん、遅刻する自分をコントロールできないのですから、“自主規制”に失敗しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400928.html

 

自分をコントロールできないためにまわりに迷惑をかけていることに対して詫びることができればまだ希望があるのですが、謝罪も感謝もできないばかりかむしろ“逆ギレ”しているのですから、どうしようもないくらいの「マナー違反」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10691753.html

 

 

許しがたいほどの「マナー違反」ではありますが、もちろん、このケースでの重要な問題(解決するべき課題)は「ルール違反」にあります。なぜなら、「ルール」はシステム(または社会)を維持するために必要だからです。

遅刻常習専門職Aの存在により会社(組織)のムードが悪化し、システム自体が崩壊するかもしれません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 

そのことをサッカーで考えてみましょう。

 

サッカーは、スポーツの中では「ルール」が少ないスポーツです。

「前半・後半計90分の得点で勝敗を決める」「(キーパー以外)手は使わない」「人を傷つけるような行為はしない」など、明文化されたルールを遵守することが求められ、しかも審判の判定には絶対的に従わなければなりません。

そうしないとサッカーというゲーム(システム)が成り立たないからです。

 

もしも勝手にボールを持って走る選手がいたら

もしも相手選手を故意に傷つける人がいたら

もしも審判の判定をまったく無視してプレーを続行したら

その場合、サッカーというゲームは成立しません。     

 

つまり、ルールを守れない選手はサッカーをしてはならないのです。ルールを守ろうとしない人間にはフィールドに立つ資格がないといえます。

 

 

ビジネス現場はもちろん、社会一般においても同様です。

「ルール」を無視する人間には、そもそも働く資格がありません。(厳しいようですが)社会システムの中に存在し続けること自体が許されません。

 

このケースで雇用が継続しているのは「代わりがいないから」です。遅刻常習専門職Aと会社との雇用関係は、人材不足の中でお互いのニーズを満たす縁が結ばれるまでのタイムラグ中の出来事に過ぎません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 「お互いのニーズを満たす縁」をコーチングの言葉で言い換えると、「ゴールを共有している状態」「コレクティブエフィカシーの関係」と表現できます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

 

この事例からわかることは「社会の中のさまざまなシステムは『ルール』で維持されている」ということ。

 

では、なぜ「ルール」は必要なのでしょうか?

 

 (S-02-07につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

自己実現理論(Wikiより引用)

欲求階層説(自己実現理論)

Wikipediaより引用

 

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-07:ルールは“自分中心”を克服するためにある

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

この事例からわかることは「社会の中のさまざまなシステムは『ルール』で維持されている」ということ。

では、なぜ「ルール」が必要なのでしょうか?

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

 

答えは、「煩悩のコントロールのため」です。

 

“煩悩”とは、脳幹レベルや大脳辺縁系レベルでの情報処理のこと。簡単にいうと「自分だけがよければよい」という「自分中心」、いわゆる「自己チュー」のことです。

 

「自分中心」の人は、決して“本当の幸せ”を感じることができません。

 

人間関係に軋轢を生じ、自分自身の心の傷を深くしてしまい、そして、いつまでも変化(進化、向上)することができず、チームの足も引っ張ってしまう。さらには、“本当の幸せ”を感じることもできない悲しい生き方

 

それが「自分中心」という生き方です。その詳細は「人間関係」をテーマとしたシリーズ編第4弾で取り上げる予定です。

 

 

 「煩悩のコントロール」を「自分中心の克服」と捉えると、ルールは教育においてもとても大切な役割を果たすといえます。教育の目的は人間形成だからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 ただし、本来の役割を忘れてしまうと、ルールはかえって教育に弊害を与えるものとなってしまいます。子どもたちの自由を奪い取る破壊装置となってしまうから。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 私たちはルールの本来の目的を忘れることがあってはなりません。

 

 

他者を気遣う気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”が「ルール」

「マナー」も「ルール」もシステム(社会)を成り立たせるために存在している

「ルール」は煩悩をコントロールして自分中心を克服するきっかけとなりえる

 

 

「ルールの本来の目的を忘れること」の一例として、「ルールを守りさえすればいい」という考え方があげられます。

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

 

 (S-02-08につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

「マナー」や「ルール」に従わない人のことを「自由人」と表現することがあります。

しかしながら、それは完全な誤りです。自身の煩悩に支配されたままで、まったく自由ではないのだから。

この誤用も「ルールの本来の目的を忘れること」の一例です。

 

以下、ピーター・F・ドラッカー(19092005年)の言葉を紹介します。

 

自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。それは選択の責任である。権利ではなく義務である。真の自由は何かからの自由ではない。それでは特権に過ぎない。

自由とは、行うことと行わないこと、ある方法で行うことと他の方法で行うこと、ある信条をもつことと逆の信条をもつことからの選択である。楽しいどころか重荷である。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任である。

                             「産業人の自由」より

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 F-052~「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_268337.html

 


ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-08:少年法が問いかけるもの

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

私たちはルールの本来の目的を忘れることがあってはなりません。

「ルールの本来の目的を忘れること」の一例として、「ルールを守りさえすればいい」という考え方があげられます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18455955.html

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

 

 

ここである事件について考えてみましょう。2015220日に川崎市の河川敷で中学1年生が殺害された事件です。

逮捕された少年たちは、テロ組織「IS(イスラム国)」になぞらえ、自らのチームを「川崎国」と名乗っていたそうです。地元で中高生を見つけるとこのように凄んでいたといいます。「俺らは法律関係ない。自分達のルールで動く。川崎国だ。逆らったら、生きたまま首を切るよ」

 

この少年たちは「ルール」を勘違いしていました。

 

社会の中で生きる以上、つまり他人との関係の中に存在している以上、私たちは何らかの「マナー」や「ルール」を守らなければなりません。社会に迷惑をかけながら「自分達のルールで動く」ことは許されません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

現に、この少年たちは、「自分達のルール」で人を殺したことにより逮捕されました。

 

未成年者の犯罪については少年法が適用されます。

「少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、原則として家庭裁判所により保護更生のための処置を下すことを規定する」とされており、家庭裁判所の判断により検察に逆送し刑事裁判に付さしめることもできますが、その場合においても不定期刑や量刑の緩和など様々な配慮が規定されています。

 

未成年者の犯罪に対してこのような配慮がなされるのは、「未成年者の人格の可塑性に着目しているため」とされています。可塑性(かそせい)とは、「固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質」のことですが(デジタル大辞泉)、この場合は「脳の神経回路網はその活動に応じて構造と機能を変化させる性質をもつ」という「脳可塑性(brain plasticity)」のことです(最新 心理学事典)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9367702.html

 

つまり、13才の少年の命を奪った少年たちは、「少年法」というルールにより逮捕・拘束されると同時に、未来の可能性を根拠に「少年法」によって守られていたのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

 

他者を気遣う気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”が「ルール」

「マナー」も「ルール」もシステム(社会)を成り立たせるために存在している

「ルール」は煩悩をコントロールして自分中心を克服するきっかけとなりえる

 

 

再度、考えてみましょう。

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

そして、人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 (S-02-09につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

川崎市中1男子生徒殺害事件をきっかけに少年法改正議論が盛り上がりました。例えば、その頃可決された18才以上に選挙権を与える法案と絡めて、「選挙権をもてばもう大人であり、少年法で保護すべき対象ではない」という主張(クレーム)が強まりました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

 皆さんはどのように考えますか?

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-09:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -前編-

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

「ルール」を守ることはなによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 

では、次のケースで考えてみましょう。

 

case12:自分の都合で契約を一方的に破棄した専門職Bの場合>

あるグループ会社があります。その中核的な組織は様々な専門職で構成されています。その中でも特に重要なある専門職は全国的に不足しているため、なかなか人員確保ができません。そこでその組織では、本社勤務の4名に加え、同じ敷地内にある関連会社に勤務する形でさらに専門職B1年契約(更新)で雇っています。

ある時、本社勤務の専門職の一人が入院することになり、業務内容にゆとりのある専門職Bにその間の応援をお願いすることになりました。

ところが、専門職Bはこれを拒みます。「本社の手伝いは契約にない」という理由で。

専門職の配置をグループ全体で考えていた本部は、契約内容の見直しを行うことにしました。しかし、専門職Bとの契約更新期限までに準備が間に合わなかったため、次の年に持ち越すことになりました。

ところが、専門職Bは新たな契約期間中にもかかわらず、一方的に退職を申し出て、その1カ月後には姿を見せなくなりました。契約破棄による一方的な退職の翌月、専門職Bがライバル会社で働いていることが判明しました

 

このケースは「マナー違反」でしょうか? それとも「ルール違反」でしょうか?

 

 

このケースでは「ルール違反」かどうかは微妙です。

 

まず、本社で欠員がでたときに「本社の手伝いは契約にない」という理由で応援を断った事例ですが、専門職Bの立場で考えるとこれは正当な主張(クレーム)だといえます。もし強要されたなら“契約違反”を訴えることが可能なはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

困っている側からみるとやり切れないでしょうが、契約内容に改善の余地があることが問題の本質であり、怒りを専門職Bにぶつけることは“八つ当たり”です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12808542.html

 

では、専門職Bが新たな労働契約期間中に転職したことはどうなのでしょうか?

 

 

労働契約解除が労働者からの申し出によるものを「自己都合退職」といいます。他の退職の形態には「定年退職」「会社都合退職」がありますが、中途退職のほとんどは自己都合退職です。

 

今回のケースは「6カ月以上の期間をもって報酬を定めた雇用契約」に相当するので、民法第627条第3項により3カ月後に退職が成立します。期間の定めのある労働契約については、民法第628条により「原則として契約期間の満了まで退職することはできない」はずです。労働者が一方的に退職した場合には、損害賠償請求の対象になります。

 

よって、このケースでの専門職Bの退職は、退職を一方的に申し出た時点では「ルール違反」であり、損害賠償の対象です。

 

しかし、この関連会社は、この一方的な退職を受け入れました。その瞬間、双方が合意したとみなされ、「ルール違反」ではなくなります。それを「合意退職」といいます。

 

よって、このケースでは「ルール違反」かどうかは微妙といえます。

 

 (S-02-10につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-10:「ルール違反」が「ルール違反ではない」に変わった一例 -後編-

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 前編はこちら

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18684416.html

 

 じつはこの事例も、S-02-06と同じクライアントの実体験をもとにしています(プライバシー保護のため変更を加えてあります)。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

専門職Bが退職した関連会社は、かなりの期間、その穴埋めができなかったそうです。その間は本社の4名の常勤専門職が日替わりで業務を代行したとのこと。

 

本社が困った時、専門職Bは「契約にない」ことを盾にサポートを断りました。その数カ月後、「契約にない」はずの自己都合退職をした専門職Bの穴埋めを、病み上がりの者を含む本社の4人が行いました。「契約にない」のに。

そして、専門職Bの一方的な退職は、会社の判断により、「ルール違反」から「ルール違反ではない」に変わりました。

 

私はこの話を伺ったとき、多忙にもかかわらず専門職Bの穴埋めを懸命に行っている本社社員を想像し、やりきれない思いに包まれました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

何かがおかしい

何かが足りない

 

「なぜおかしいのか?」「何が足りないのか?」それを考えていく過程で「マナー」や「ルール」のさらに上(先)にあるものが見えてきました。

それは「川崎国」や少年法に関する報道を見聞きするたびに感じたものでもあります。

 

次回、その“上(先)”に迫ります。

 

最後にアルバート・アインシュタインの言葉を紹介します。アインシュタインも同じようなものを感じていたのかもしれません。

 

 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

アルバート・アインシュタイン                

 

 

 (S-02-11につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-11:アインシュタインの“直観”の源

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

「ルール」を守ることはなによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

人の命を奪った人も、その刑期を全うすれば完全に許されるのでしょうか?

 

 

わたしが戦争に反対するのは、直観的な感情による。

わたしは人間を殺すことがたまらなくいやなのだ。

わたしのそうした姿勢は論理的なものではなく、

あらゆる残虐行為と憎悪に対する直観的な反発によるものだ。

 

アルバート・アインシュタイン                

 

 

前回まで「マナー」と「ルール」について考察しました。

 

マナーとは「他者を気遣う」気持ちの表れであり“自主規制”。そして、言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”がルールでした。マナーもルールもシステム(あるいは社会)を成り立たせるために存在しています。

 

ルールは言語により具体化(あるいは明文化)されたものですから、その存在は論理空間にあります。脳機能でいうと前頭前野背外側野の働きです。

感情を司るのは大脳辺縁系です。それは魚類や爬虫類にもみられる、より原始的な脳の働きです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

アインシュタインが述べた「直観的な感情」「直観的な反発」は、大脳辺縁系的な感情や反発ではないはずです。なぜなら、原始的な感情だけでは「人間を殺すことがたまらなくいや」という思考は生まれず、「残虐行為」という概念はもちろんのこと、「憎悪」という情動自体が認識できないはずだからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

アインシュタインの「直観的な感情」「直観的な反発」は、脳幹部や大脳辺縁系処理の話ではありません。大脳辺縁系どころか、「人間を殺すことは良いことか悪いことか?」「どこからが残虐行為か?」「憎悪とは何か?」といった論理的な議論(ディベート)を前頭前野背外側部で徹底的に行うことまでも超越して“直観的”に拒絶しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

このアインシュタインの“直観”は、論理空間をはるかに超えた空間(次元)へのアクセスにより生まれました。そこは“ひらめき”が生まれる超次元

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

 

そのアクセスを可能とするのは、前頭前野内側部の活性化(発火)です。

脳幹・大脳辺縁系の活性化は「情動(感情)」。前頭前野背外側部の活性化は「論理」。そして、前頭前野内側部の活性化が「社会的情動」または「感性」。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html

 

「情動(感情)」→「論理」→「社会的情動(感性)」という変化は、生命の進化そのものです。そして、それは抽象度が低い次元から高い次元への飛翔でもあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

前頭前野が発達した人類は、論理空間、そして超論理の空間へのアクセスが可能となり、他の生物とはまったく異なる存在に進化しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 (S-02-12につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 PM-06-12:仮説07) 思考停止

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 

 

アインシュタイン&オッペンハイマー(Wiki)

アルベルト・アインシュタイン博士(&ロバート・オッペンハイマー)

Wikipediaより引用

 


このページのトップヘ