苫米地式認定コーチ CoacH T(タケハラクニオ) ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学びながら九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

カテゴリ:PMⅠ:The Power of Mind Ⅰ > 05:コーチの視点で教育を考察

PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-13そもそも教育とは?-6-1)人間形成

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-6-1)人間形成

 

 「人間形成」とは一体どのようなことをいうのでしょうか?

 

 心理学者 アブラハム・マズローの有名な「欲求階層説」を例に考えてみましょう。

 

マズローは、「人間は自己実現に向けて絶えず成長する生き物である」と仮定し、人間の欲求を五段階の階層で理論化しました。それが「欲求階層(段階)説」で、「自己実現理論」とも呼ばれています。

それによると、人間の欲求は五段階のピラミッドのようになっており、下位の段階の欲求が満たされるとより高次の欲求を目指すと説明されています。

 

その欲求とは下位より、1.生理的欲求(Physiological needs)、2.安全の欲求(Safety needs)、3.所属と愛の欲求(Social needs/Love and belonging)、4.承認(尊重)の欲求(Esteem)、5.自己実現の欲求(Self-actualization)です。

 

一番下の階層である「生理的欲求」は、生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的欲求です。人間以外の動物はこのレベルを超えることはないと考えられています。

逆に、人間にとってはこの欲求しか見られないことは一般的ではなく、通常の健康な人間は次の安全の欲求が出現すると考えられています。

 

「安全の欲求」とは、安全性、経済的安定性、良い健康状態の維持、良い暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求です。病気や不慮の事故などに対するセーフティ・ネットなども含まれます。

「衣食足りて礼節を知る」という管子の言葉は、この欲求を満たすことの大切さを語った言葉です。医療・福祉を含む社会保障の役割は、この階層の欲求を満たしてあげることです。

反対にいうと、医療・福祉に救いを求める患者さんは、これらのベーシックな欲求さえ満たされていない辛い状況にあるといえます。
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124524.html

 

三層目の「所属と愛の欲求」とは、「集団に属したい」「他者から愛されたい」という欲求です。不適応や社会的不安、うつ状態になる原因の最たるものとされています。

医療の話でいうと、二層目の「安全の欲求」までが(とりあえず)満たされた患者さんは、自然とこのレベルを求めることになります。医療・福祉に携わる者はそのことをわかった上で、日々の言動をコントロールする必要があります。

 

四層目の「承認(尊重)の欲求」とは、自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求です。尊重のレベルには二つあり、低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができます。

マズローは、この低い尊重レベルにとどまり続けることは危険だとしています。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで満たされます。

コーチングでいう「エフィカシー」です。これらの欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

教師と生徒との関係や医療・福祉従事者と患者さんとの関係を良好なものにするために、「いかにこの尊重欲求を満たすことができるか」が鍵となります。

 

もちろん、家庭や職場などでの人間関係すべてにおいても。

 

(つづく)

 

 

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Abraham Maslow(Wikiより引用)

Abraham Harold Maslow

Wikipediaより引用

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-14そもそも教育とは?-6-2)人間形成

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-6-2)人間形成

 

教師と生徒との関係や医療・福祉従事者と患者さんとの関係を良好なものにするために、「いかにこの尊重欲求を満たすことができるか」が鍵となります。

もちろん、家庭や職場などでの人間関係すべてにおいても。

 

そして何より重要なのは、自分自身との関係においてです。

 

つまり、「いかに自分の無限の価値を感じ、自身を誇りに思うことができるか」が、その人の人生を決めてしまうといえます。

 

私は、「人が幸せに生きるために大切なものは何か?」という視点で、いろいろな生き様や死に様を見守ってきました。

今、確信していることは「エフィカシー」という概念の重要性です。

 

間違いなく「エフィカシー(自分のゴール達成能力に対する自己評価)」が「良い人生の秘訣」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

 

ここまでの四つの欲求は足りないものを満たすという意味で「欠乏欲求」と呼ばれています。それに対して五番目の自己実現の欲求は「成長欲求」と呼ばれます。

 

五番目の「自己実現の欲求」とは、自分の能力・可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を追求する欲求です。

 

コーチ兼医師の私にとって理想的な医療の姿とは、「患者さんの自己実現をサポートすること」です。もはや医療という言葉は相応しくないかもしれませんが、この階層での働きかけができる仕組みをなんとしても創りたいと思っています。

 

以上が、マズローの「欲求階層説」です。

 

(つづく)

 

 

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自己実現理論(Wikiより引用)

欲求階層説(自己実現理論)

Wikipediaより引用

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-15そもそも教育とは?-6-3)人間形成

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-6-3)人間形成

 

苫米地博士は、この「欲求階層説」について、「人間の欲求が、最も抽象度の低い物理空間(脳幹レベルの欲求)から、しだいに抽象度の高い情報空間(前頭葉レベルの欲求)へと段階的に上がっていくことを説明したものだ」とコメントされています。

 

つまり、これが「人間形成」の階梯であり、その本質は「抽象度を上げること」であるということです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

「生理的欲求」や「安全の欲求」は、自らの生存に関わる本能、脳幹的欲求に基づく物理空間の欲求です。食欲を例に考えると、十分な食料を得ることが難しく、食べるものに常に困っていた原始時代の人類は、それがなんであれ食べ物があるだけで幸せを感じたはずです。

現代でも貧困や飢餓に苦しむ発展途上国の人々は、食べ物が手に入るということに少なからず幸せを感じるでしょう。

 

そうした生存に関わる欲求が満たされると、次第に欲求の対象が物理空間から情報空間に移行していきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

 

欲求が満たされた状態を「幸せ」と呼ぶとすれば、幸せの抽象度が上がっていくのです。食べ物に関していうと、「単にお腹が満たされて栄養が摂れればいい」という欲求から「おいしいものが食べたい」という欲求に変わっていきます。

さらに抽象度が上がると「自分一人がおいしいものを食べたい」から「家族と一緒においしいものを食べたい」に変わり、やがて「日本国民がおいしいものを」、「アジアが」、「世界が」と広がっていくはずです。

 

「世界から飢えをなくしたい」という思いからもっと抽象度が上がると、「この世界すべてを平和にしたい。全人類がよりよく生きられるようにしたい」という思いに変わっていきます。それが「抽象度が上がる」ということです。

 

抽象度を上げて生きる

 

じつは、マズローは晩年に「欲求階層説」で唱えた五段階に、さらにもう一つ上の「自己超越の階層(Self-transcendence)」があると付け加えました。

 

「自己実現の欲求」を満たして、個人としての同一性(アイデンティティー)が完成すると、さらには個を超越したもの(例えば、他者や共同体、人類、生態系、宇宙など)との一体感、同一性を確立することを目指す、というのです。

 

マズローは自己超越のレベルに達している人(Transcenders)の特徴として、「統合された意識を持つ」「落ち着いていて、瞑想的な認知をする」「他者の不幸に罪悪感を抱く」「謙虚である」「他視点的な思考ができる」などを挙げています(Wikipediaより)。

そうしたイメージは「抽象度の高い思考ができる人」と見事なまでに重なります。

 

マズローは人の欲求を分析することで、幸せになる生き方を発見しました。それが「自己実現」を目指す生き方です。そして晩年に、さらに幸せになる究極の生き方に到達しました。それが「自己超越」に到る生き方です。

 

その本質は、マズローのいう超越とは、「抽象度を上げること」であり、“無敵”になることです。そしてそれが「人間形成」の本質です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

(つづく)

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8430748.html

 

 

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-16そもそも教育とは?-7-1)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-7-1)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

 「5)望ましい方向へと変化させること」で、ある中・高一貫校での進路指導主任の話を取り上げました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9672774.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9817539.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9817603.html

 

「進路指導前は薬学部志望だった生徒に対して、『君の成績なら合格できるから医学部を受験しなさい』とアドバイスをし、見事に合格させました」という発言の根底に差別があることを問題点として取り上げましたが、皆さまの中には「なぜ差別があると断言できるのか?」と疑問に思った方もいらっしゃるかと思います。

 

じつは、他に根拠があります。「分をわきまえろ問題」です。

 

 その進路指導の先生は保護者に対してこのようにも発言したそうです。「褒めて育てるという親もいますが、子供が勘違いをするのでやめてください。中には分をわきまえず、『何にでもなれる』みたいな幻想を抱く子がいます。しっかりと現実を見れる子に育てるためにも、いいかげんなことを言うことはやめてください。そのために、まずは親が分をわきまえてください」と。

 

 「分をわきまえる」とは、「自分の身の程や分際を承知して、出過ぎたまねをしない」という意味です。

 

コーチとしてこの言葉を聞くと、「現状のコンフォートゾーンに閉じこもって、無限の可能性や豊かな才能を発揮する未来を諦めろ」と言っているように聞こえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

「身の程」とは一体何でしょうか?

 

「分際」とは誰が決めるというのでしょうか?

 

 この思想の背景には儒教的な差別思想があります。そして、教育者がこんな言葉を吐いたという事実には、とても大きな問題が潜んでいます。ディベートでいう「クリティーク(KritikK戦略)」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

「肯定側の推進する論理の背景もしくは前提にある哲学、思想、世界観、利用される用語などが望ましくないものであれば、肯定側のケースやプランの有効性にかかわらず、現実の世界では、肯定側のプランが採択されてはならないという議論」がクリティーク(K戦略)です。

 

つまりK戦略の基本とは「相手の前提となっている価値判断そのものを疑う」ということですが、今回のケースでいえば「『分をわきまえろ』と発言する教師の判断・行動の根底にある考え方(思想、哲学、世界観、ブリーフシステム等)が“おかしい”から、いずれにせよ、その進路指導はよくない」というのが私のK戦略的意見です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

(つづく)

 

 

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PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-17そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

 この思想の背景には儒教的な差別思想があります。そして、教育者がこんな言葉を吐いたという事実には、とても大きな問題が潜んでいます。ディベートでいう「クリティーク(KritikK戦略)」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

「肯定側の推進する論理の背景もしくは前提にある哲学、思想、世界観、利用される用語などが望ましくないものであれば、肯定側のケースやプランの有効性にかかわらず、現実の世界では、肯定側のプランが採択されてはならないという議論」がクリティーク(K戦略)です。

 

つまりK戦略の基本とは「相手の前提となっている価値判断そのものを疑う」ということですが、今回のケースでいえば「『分をわきまえろ』と発言する教師の判断・行動の根底にある考え方(思想、哲学、世界観、ブリーフシステム等)が“おかしい”から、いずれにせよ、その進路指導はよくない」というのが私のK戦略的意見です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

第二章でも取り上げたとおり、釈迦の哲学は縁起であり、そのプリンシプルは「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」と「この世は心が作っている」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

それを大乗仏教では「空」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 仏教は中国経由で日本に伝わりました。すなわち、インドの釈迦を祖とする哲学が中国にわたり、儒教・道教と強く結びついて完成し、その後日本に伝わったものが日本仏教です。

当然、釈迦のオリジナルの哲学は“中国化”されています。

 

反論が多いかとは思いますが、その意味で「日本仏教は仏説ではない(釈迦哲学ではない)」といえます。仏壇にふつうに位牌があるのは儒教の名残であり、地獄や極楽を語るのは布教のための論理です。オリジナルの釈迦の哲学ではありません。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。

すなわち、「この世には初めから違いがある」「その違いに従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

 

支配者や既得権益は、この論理を使ってシステムを強化してきました。

1603年にはじまった江戸幕府が、1867年の大政奉還まで250年以上もの長きにわたってシステムを維持できた背景には、武家層を中心とした(特に朱子学としての)儒教の定着があります。

そしてその取り組みは、忠孝思想が教育勅語に取り入れられるなど明治以降も続き、二度の世界大戦を経て再び強化されようとしています。
 

 学校において「分をわきまえろ」という言葉とともに進路指導が行われる場合、たとえ教師自身が意識していないとしても、それは「私が医学部に行けと言えばちゃんと行け」という命令であり、「親も子も教師に従え」という恫喝です。

 

 教育は「教え育てる」と書きますが、“教える”ものとは「自由」です。

そして、「生じる責任を承知の上で、自由に生きれる心を持つ人間」に“育てる”ことこそが、その真の目的です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

真の教育が行われる環境でこそ、「人間形成」が可能となります。

よって、「人間形成に作用するすべての精神的影響」とは、徹底的に差別を排除した社会から生まれるものであり、「無分別」を是とする釈迦哲学から始まるものです。

 

では、その教育が行われる場としての、家庭、学校、社会とはどのようなものでしょうか?

 

(つづく)

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9815429.html

 

 

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-18そもそも教育とは?-8)家庭教育・学校教育・社会教育

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-8)家庭教育・学校教育・社会教育

 

 自由という視点でみると、家庭とは「自由に伴う責任や社会性を身に着けさせる場」学校とは「自由を手に入れるための知識を授け、その実現をサポートする場」社会とは「自身の自由と同じように他人の自由も尊重しながらさらに広げ、実践していく場」といえます。

 

 学校はあくまで学習の場です。子供が幼稚園や小学校に通う前の段階で、親は子供に対する最低限のしつけを終わらせていなければなりません。

最低限のしつけとは、基本的な社会性を身につけさせることです。それが不完全であれば、学校でしっかり学んだとしても、自由をはき違えてしまい、社会に迷惑をかけてしまうことになります。

 

ここで気をつけないといけないことは、社会性を身につけさせるということは、決してがまんさせることではないということです。もちろん、がまんを教える場面も必要です。しかし、がまんそのものは社会性を身につけることではなく、「have to(~ねばならない)」を受け入れるということです。

それは教育の目的から外れているうえ、子供の潜在能力を制限してしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

教育の真の目的は「自由」です。

それは、「子供に自分のやりたいことを見つけさせること」でもあります。

 

多くの親がしつけだと思っていることは、単なる親のエゴの押しつけです。自分の思惑と違うことを子供がするから叱るということに過ぎません。このエゴの押しつけは、会社など組織内でも見受けられます。コンプライアンスというの名のもとに。

 人間の無意識は、押しつられたら押し返します。「have to」であればあるほど、よりクリエイティブに回避しようとします。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882703.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

その場合、主に活動するのは大脳辺縁系による情動処理です。前頭前野外側部が活性化することで可能になる論理的な思考のカケラも見られないはずです。まるで「ファイト・オア・フライト」の状態です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

逆にいうと、エゴの押しつけになっていないかの確認に論理的検証が役にたちます。第二章で紹介したトゥールミンロジックによるディベートです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

 

 以上、「教育」の定義中の言葉を、1)教え育てること、2)望ましい知識・技能・規範、3)学習を促進する、4)意図的な働きかけ、5)望ましい方向へと変化させること、6)人間形成、7)(人間形成に作用する)すべての精神的影響 に分け考察しました。

さらに、「その活動が行われる場」としての8)家庭教育・学校教育・社会教育 についても述べさせていただきました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124525.html

 

 

 教えるべきものは自由

しかし、同時に自由に伴う責任や社会性、そして論理も教えないといけない

 

 

そんなことを考えながら無邪気に遊ぶ子供たちを眺めているときに浮かんだ自由のイメージについて、次回以降まとめていきます。

 

(つづく)

 

 

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PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-19教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~

 

私の子供たちがヒーローもののTV番組に夢中になっていた頃の話です。

 

ほぼ毎月のようにヒーローの人形が発売されていました(主人公やその仲間がフォームチェンジをするたびにおもちゃが発売されます)。私が子供たちにせがまれて買っていたのはソフビの人形ではなく、各関節をかなり自由に動かすことができるプラスチック製のものでした。本物さながらのポーズをきめることができます。

 

しかし、ひと月もたつと各関節はユルユルになってしまいます。関節もプラスチックで構成されているため、遊んでいる間にすれてしまい抵抗がなくなってしまうからです。

関節の動きに注目すると「自由度が大きい状態」といえます。しかしながら、関節を好きな位置で固定できないため、立たせることができなくなります。

 

子供の一人は、お年玉でそのヒーローのプラモデルを買いました。

パーツ数も価格も大人向けのそのプラモでは、各関節にゴムが使われていました。動かすときに若干抵抗があるのですが、広い可動域を保ちながらしっかりと固定することができます。

「潜在的な自由度は大きいが、あえて自由を制限している状態」といえます。

 

思いっきり自由だがユルユルで立たせることができなくなった人形と自由だが制限が加わっていることで思いどおりの姿勢を保つ人形

 

二つの人形を見ながら自由の本質について思いを巡らしました。

 

(つづく)

 

 

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PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-20西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

教育の目的である「自由」とは、どのように定義されているのでしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

Wikipediaには、「自由(じゆう、英語:freedomliberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう」と記載されています。

 

注意すべき点は、外来語である「フリーダム」「リバティ」の和訳として日本語に置き換えられた「自由」と、仏教に由来する本来の「自由」とは同じではないということです。

 

まず外来語としての「自由」から説明します。

 

「フリーダム」と「リバティ」はほぼ同じ意味合いで使われていますが、その意味合いは微妙に異なっています。

「フリー」は古英語の「freo」に由来し「束縛や拘束がなく、義務を免除された状態」です。つまり「~しなくていい」ということです。

「リバティ」はラテン語の「libertas」が語源で「選択や行動・発言の権利が保障された状態」と説明されます。こちらは「~していい」という意味です。

 

どちらの語も「背景に束縛や制約がある」ことを物語っています。束縛や制約があることを前提に、「この範囲であなたの権利を認めますよ」ということなのです。フリーもリバティも元来は「特権」のことを指していました。

「自由」の反対に「束縛」、「権利」の反対に「義務」がある。さらに突っ込むと、世の中には「支配者と奴隷」「ルールを作る側と従う側」がいるということが前提になっています。

 

社会が成熟するにつれ、その中で必ず生まれてくる「権力」の維持のためにルールが利用されるようになります。「私は支配者、君たちは奴隷」といいだす人間がでてきて、ルールが支配の道具になっていきます。

支配者に都合よく作られたルールの中で、「ここからここまでは君たちの権利も認めてあげる」というのが「フリーダム」や「リバティ」の概念です。

私たちが教わってきたものは、そういう「自由」です。

 

では、仏教に由来する日本語本来の「自由」とはどのような意味なのでしょうか?

 

釈迦は、弟子たちに「自らを由(よ)りどころとし、他のものを由りどころとせずにあれ」と教えたといいます。つまり、「思考や行動の判断基準をほかの何者でもない、自らに置きなさい」ということ。

 

鹿児島の先輩 長渕剛さんの「STAY DREAM」中に、「尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある」という一節があります。

 

釈迦がいう縁起とは関係性のことです。私たちは常に何かとの関係性の中に存在しているのであり、その意味で縁起とは「がんじがらめの不自由さ」ともいえます。

その不自由さをしっかり認識して、自らの思考や行動の判断基準で考え吟味し、自らの意志であえてその不自由さに飛び込んでいくことが、仏教に由来する自由の意味です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

(つづく)

 

 

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PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-21現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―前編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―前編-

 

では、西洋の現代分析哲学を用いて「自我=私」を定義することで自由の意味を考えると、どのようにいえるでしょうか?

 

現代分析哲学では、概念および存在を部分関数(Partial Function)で定義します。部分関数とは「分ける関数」のことです。

部分関数の考え方では、部分を定義することにより、その補集合、つまり定義した部分以外のすべても定義することができます。例をあげると、自然数の中の偶数という部分関数を定義すれば、偶数以外のすべての自然数、つまり奇数が定義されるという感じです。

 

さらに概念だけでなく、物理的な存在も部分関数で定義できます。

ある特定の個人の存在を定義する場合なら、宇宙をその個人とその個人以外のものに分けます。そうして、その個人を完璧に定義することができれば、その個人を除く全宇宙を定義できたことになります。

 

この部分関数を使って「自我=私」を定義します。

 

「私」を定義しようとすると、「私の家族は○○」「私の仕事は○○」「私の住んでいるところは○○」「私の通った学校は○○」「私の好きな食べ物は○○」など情報をたくさん並べて定義しようとします。

 

しかし、どこまで説明しても、それは「私」の定義とはなりません。

 

「私」を語ったはずが、「私」と何かの関係性を語っているだけだからです。しかもその関係性は詳しく定義するほど(例えば「家族とは○○」「仕事とは○○」と定義の定義をするほど)、どんどん「私」から離れ、まわりに広がっていきます。

「私」を語ろうとして、「私以外の宇宙のすべて」を語っていくことになるのです。

 

それは、「私以外の宇宙のすべて」が「私」を定義していると考えることもできます。

 

つまり、「私」と「宇宙」は表裏一体なのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

このことを釈迦は、「縁起」という概念を用いて説明しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

(つづく)

 

 

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-22現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

西洋の現代分析哲学を用いて「自我=私」を定義することで自由の意味を考えると、どのようにいえるでしょうか?

 

前回は、部分関数を使って「自我=私」を定義しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10543825.html

 

「自我=私」は、評価関数を使って定義することもできます。

 

評価関数とは、「自分にとっての重要度で宇宙を並べかえる関数」です。

前回は「私」を定義するために、「私の家族は○○」「私の仕事は○○」などと考えましたが、それは自分にとって重要なものを取り上げ、その順番で(自分の)宇宙を決めていることといえます。

この時の重要性の順番が、「私」を定義することになります。

 

 ここまで何度も述べてきたとおり、「評価関数」のほとんどが親の影響により決められています。具体的には「情動を伴った体験の記憶」と「抽象化された情報の記憶」です。

表現を変えると、「人は、過去の記憶によって、他人に作られている」といえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

ここで、抽象度を考えます。

現代分析哲学において、情報量の大小で概念を階層化する際に、情報量の少ない状態を「抽象度が高い」と表現し、情報量が多い状態を「抽象度が低い」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

抽象度とは、パソコンのフォルダ(階層)構造のようなものです。より大きいフォルダを作ることが「抽象度を上げる」ということです。例えば、<犬、猫、動物>という集合を考えたとき、抽象度で考えると「犬」と「猫」は同じ抽象度の階層にあり、「動物」はひとつ上の抽象度にあると考えることができます。

 

「猫より犬が好き」な人は「犬」を「猫」より重要と考える、つまり「犬」と「猫」を分別する「自我」で宇宙を並べかえています。このときに「犬」と「猫」を分別せず、抽象度を上げて「動物」と考えられる人は、自由度もひとつ上がっているといえます。

 

「犬か?、猫か?」というこだわりがなくなることで、マインド(脳と心)が解放され、思考が自由にできるようになるのです。

 

二つのもののどちらがより重要かという評価をなくしていくこと

 

これが自由になる秘密です。そして、それは「“無敵”になること」ともいえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

「自我=私」について考える時に「部分関数」や「評価関数」を抽象度を上げて捉えなおすことが重要です。

 

「私」の抽象度を上げ、「私」の定義を広げていく生き方こそが、現代分析哲学が示唆する“自由な生き方”といえます。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-23レッドソックスの「崩壊の内側」にみる自由の危険性

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

レッドソックスの「崩壊の内側」にみる自由の危険性

 

少し古い話になりますが、かつて松坂大輔投手が所属していたボストン・レッドソックス(MLB)の事例をもとに、自由について考えてみたいと思います。

 

在任八年間でチームを二度の世界一に導いたテリー・フランコナ監督は、二年のオプションを残しながら退任してしまいました。

監督は選手の自主性を尊重していましたが、そのためなのか最終年のシーズン終盤には選手から緊張感が消えてしまい、先発ローテーション投手三人が、試合中にもかかわらず、クラブハウスで飲酒をしながらテレビゲームをすることが常習化してしまったそうです。

いずれも禁止事項ではないのですが、大事なペナントレース終盤にも続いていました。

 

チームは勝負どころの九月に失速し、プレーオフ進出を逃してしまいました。地元紙のボストン・グローブは「崩壊の内側」という記事を掲載し、チーム内の雰囲気の悪さを指摘しています。

 

フランコナ監督は退任会見で、「私は彼らを信頼していたんだが、望んだとおりにしてくれなかった。私はもう終わりにしたほうがよいと思った。私はそれにとてもフラストレーションを感じていて、それがこの退任の理由なのかと聞かれれば、そうかもしれない」と発言しています。

 

なぜ監督の自主性(すなわち自由)を尊重する方針は機能しなかったのでしょうか?

 

レッドソックスといえば、総年棒メジャーリーグ四位(当時)の球団です。なぜ高額のスター選手を集めた強いはずのチームが内部崩壊したのでしょうか?

 

このレッドソックスの監督辞任とPM-05-19(教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~)の二つの人形には関連があります。その関連とは何でしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400928.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-24自由を履き違えた人間は、自分もチームも破壊する

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

自由を履き違えた人間は、自分もチームも破壊する

 

なぜ監督の自主性(すなわち自由)を尊重する方針は機能しなかったのでしょうか?

なぜ高額のスター選手を集めた強いはずのチームが内部崩壊したのでしょうか?

このレッドソックスの監督辞任とPM-05-19(教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~)の二つの人形との関連とは何でしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400928.html

 

 

結論からいうと、レッドソックスが崩壊したのは、主力選手三人が自由を履き違えたからです。

 

なぜ自由を履き違えたのかというと、抽象度が低く、社会性がなかったからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

抽象度が低い人達が自主性を尊重する監督の意図を理解できずに自由を履き違えたことで、そして、不幸にもその人達がチームにとって重要な選手だったことで、チームは崩壊しました。

 

 

自由を履き違えた人間は、自分もチームも破壊してしまいます。

 

 

抽象度が低い人は、セルフコントロールができません。

強制された環境では問題を生じなくても、自由を許される環境ではつい抽象度が低い行動をとってしまうので、次々と問題を起こしてしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

抽象度が低い行動とは、煩悩丸出しの行動や自分だけが良ければいいといった言動です。

具体的には、タバコ・酒やギャンブルに溺れ、考えるのは自分の利益ばかりで全体を見渡すことができず、言動が攻撃的・感情的・他罰的になります。食欲、性欲、睡眠欲といった煩悩すら十分にコントロールすることができません。

 

チーム一丸とならなければならなかったシーズン終盤の大切な時期に、試合中にもかかわらず、酒を飲みながらテレビゲームをするといった独善的な行動は、まさに抽象度の低い子供のような行動です。

そんな行動が、チームの士気を下げてしまいました。高い年棒をもらっている主力選手たちの自分勝手な行為が、チームのエフィカシーを下げ、ムードを壊してしまったのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

人形の例えでいうと、「自由だが制御がきかず、立てなくなった人形」です。

機能を果たせなくなり、自身の価値を下げてしまうことになります。そして、機能を果たせなくなったものの集まりであるチームが、その目的を果たすことはありません。

 

ところで、医師にはアンモラルな人が多いという意見をよく耳にします。

その意見が正しいかどうかには言及しませんが、もしそうなら医師という仕事の抽象度(または自由度)の高さが関係しているように思います。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

自戒を込めて述べますが、セルフコントロールができない人間は医師になるべきではありません。患者さんやその家族、スタッフなどまわりの人たちへのネガティブな影響がとても大きく、結果としてみんなを不幸にしてしまうからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

(つづく)

 

 

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