PMⅠ:The Power of Mind Ⅰ
PMⅠ-03:苫米地理論との出会いと実践
PMⅠ-03-01:死が身近だった幼少時代の闇
物理空間での言動には必ず情報空間での因があります。そして「時間の流れ(http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html)」を考えると、その因は未来にあるといえます。
苫米地理論を学んだ今は、過去のつらい思い出も未来でのゴール達成の大切な「縁起(http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html)」として解釈することができるようになりました。過去を自由に書き換えることができるのです。
この章(第三章)では私の経験を紹介し、苫米地理論で考察します。
死が身近だった幼少時代の闇
私は鹿児島県鹿児島市に生まれました。
父は自営業を営んでいました。もともと厳しい性格の上に、ギャンブル依存、アルコール依存があり、機嫌が悪いと手がつけられないほど暴れていました。母に手を上げることも多く、暴言・暴力の場面が今も脳裏に焼きついています。
その母もギャンブルに依存するようになりました。世間体を気にする両親でしたので、傍から見るとごく標準的な中流家庭に見えていたと思いますが、内情は荒れ果てていました。
小学校に通うようになると、私も殴る・蹴るの暴力の対象になりました。親の言うことを聞かない子供でしたので理由のある体罰もありましたが、理不尽なものも少なくはありませんでした(理由があれば体罰を行っていいという意味ではありません。いかなる理由であっても暴力には反対です。心にも傷をつけてしまうから)。
今でも私の右手背には、タバコの火を押し付けられた痕が残っています。物理次元では長い年月をかけて徐々に薄くなっていますが、情報次元では今でも痛みの記憶とともに鮮明に残っています。
物理空間と情報空間、両方の痛みに耐えながら私は育ちました。
そんな私の救いになったのが祖父母の存在です。幼児の頃から週末は必ず泊まりに行っていました。祖父母はとても優しく、子供ながらに「愛されている」と感じていました。
祖父母と過ごす土曜午後から日曜夕方までの時間はとても心地よく、明るい光に包まれているようでした。
反対に、実家に帰りながら見ていた夕陽の絶望的で重々しい赤色は、ジリジリとした痛みを生みだす地獄の炎のように感じられました。
「こんなのもう耐えられない。一緒に死のう」…母に何度もそう言われました。
もちろん、子供の私に死ぬということがわかっていたはずはありません。しかし、「この現状よりはましなもの」という認識があり、とても身近なものとして感じていました。とくに日曜の夜はいつも死ぬことを考え、自分が死んでしまったあとに嘆き悲しむ祖父母や友達の姿を想像しては涙するということを繰り返していました。
幼少の頃の思い出に色を付けるとすると漆黒です。幼少時代は闇の中で育ったというのが私の正直な実感です。
成長するにつれて、私は、父に反抗するようになりました。といっても直接殴り返すわけではなく、いろいろと悪いことをしては困らせていました。
大人だったら逮捕される立派な罪がばれてしまった九歳のある夏の日の夜、その被害者に謝罪をしに行くために、私は無理やり車に乗せられました。助手席で恐怖を感じていると、運転する父が「俺は子育てを間違えた。俺が悪かった…」とか細い声で呟きました。その頬を大粒の涙が伝っていました。
今でもその時の映像ははっきりと覚えています。そして、「人を悲しませることはやめよう。これからはまっすぐ生きよう」と心に誓ったことも。
息子の将来に危機感を感じた両親は、私に習い事をさせようとしました。当時のクラスの7~8割が塾に通っていたので「勉強がしたい」とお願いしましたが、塾には行かせてもらえませんでした。
昔から私が勉強をしていると、父親はなぜか怒りました。不機嫌になるというレベルではなく、怒りまくるレベルです。親に隠れて宿題をすることが習慣になっていた私にとって、堂々と勉強をすることは憧れでした。「塾に行きたい」と本気でお願いしたはずですが、願いはかないませんでした。
結局、ソフトボール少年団に入れられて、定期的にお寺に連れていかれるようになりました。
(つづく)
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)