PMⅠ:The Power of Mind Ⅰ
PMⅠ-05:苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ
PMⅠ-05-02:そもそも教育とは?-1)教え育てること
この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。
そもそも教育とは?-1)教え育てること
教育とは何を教え、どのように育てることでしょうか?
…苫米地理論を突き詰めて考えると、教えるべきものとは「自由」だといえます。
自由は他人から与えられるものではなく、そもそも手で触れられるような物理的なものではありません。その存在は情報空間にあり、本人のマインド(脳と心)が生みだすものです(念のためですが物理も情報です)。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html
例えば、自らの信念に基づく行為を行っている人が、権力(既得権益)側に捕まり拘束され続けているとします。物理空間では牢獄の中ですので自由を奪われているといえますが、情報空間ではどうでしょうか?
…その人は情報空間では自由といえるでしょう。
なぜなら、自ら選択した行動の結果として拘束されているのであり、“思いどおり”だからです。もちろん「だから不当に拘束していい」という意味ではありませんが、拘束という結果に対する責任はその人自身にあります。
その結果を受け入れれば自由といえ、拒絶すれば不自由となります。
ここで強調したいのは、「意志のレベルで自由といえるか」ということです。
コーチングで考えると、「自分自身でゴールを設定している」というあたりまえの状態のことです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html
学生時代の仲間にはあまりいませんでしたが、社会にでると二代目、三代目の医師と数多く出会うようになりました。もちろんすべてがそうだと言いたいわけではありませんが、根源的な苦しみを背負っているように感じられる人が少なくないことも事実です。
前章で取り上げた話題でいうと「スピリチュアルペイン」を抱えている状態です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293317.html
親により決められたゴールへ向かって歩み続けなければならないという不自由から苦しみが生まれているといえます。モチベーションが「have to」なのです。
自由を奪われた人を奴隷と呼ぶのなら、その苦しみは奴隷の苦しみといえます。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html
教育において教えるべきものは「自由」です。
さらにいうと、自由を手に入れるための知識とスキルであり、自由に伴うべき責任です。
自由のための学問を「リベラルアーツ」といいますが、そのリベラルアーツを学ぶ前段階として高校までの教育があるといえます。幼稚園から大学まで一貫して根底にあるべきものは自由であるはずです。
その自由を教えた結果として、「生じる責任を承知の上で、自由に生きれる心を持つ人間に育てること」が教育の本来の目的のはずです。もちろん、自由のための学びは大学で完結するものではありません。そのことについては「6)人間形成」で取り上げます。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html
教育が本来の目的どおり行われていれば奴隷は生みださないはずですが、かつての私も含め、世間は奴隷だらけです。いつの間にか奴隷マインドを植えつけられてしまった人の心を開放することも、真の教育の大切な機能といえるのかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7556145.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7702279.html
自由な心を持つ人間に育てあげるために、あるいは奴隷マインドから救いだすために、コーチング理論を含む苫米地理論を教え、実践させることが重要です。もちろんプッシュ・プッシュバックが働かないように配慮しながら。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882703.html
(つづく)
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)
コメント