F-003:日本人の微笑み
今年もWorldPeaceCoachingに参加しました。
広島を訪れるたびに、人類史上最悪の大量虐殺に対する憤りが湧きあがります。
戦争やテロなどの人災は将来必ずなくなると信じていますが、地震・津波や集中豪雨などの自然災害には備えが必要です。最近、職場に近い新燃岳(5kmほど)が噴火を再開しました。鹿児島には桜島もあり、いつ大噴火が起こってもおかしくない状況です。
そんな災害の報道に触れるたびに自問してしまうことがあります。
「嘆き悲しむ被災者と向き合ったとき、私はどんな表情をすればいいのだろうか?」
「なんと声をかければいいのだろうか?」
医療・介護の現場で働く者にとっては、じつは、災害のような状況は特別ではありません。老いや死が身近に存在するからです。悲しみや苦しみがあたりまえのようにあるからです。
医療に携わる者はどんな表情で働き、どんな言葉をかければいいのでしょうか?
私が働いている病院の理念は、「常に笑みを絶やさず、安心感を与え、信頼される老人医療・介護のスペシャリストとして、社会に必要とされる病院を目指します」というものです。
この理念中にある「常に笑みを絶やさず」に対して、「病院では笑ってはいけない場面があるので、この表現は変えた方がいい」という意見が少なくありません。
笑みを絶やさずにいることの是非を、簡単には論じられそうもありません。
そもそも「笑み」とは何なのでしょうか?
…「怪談」などの作品で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、「日本人の微笑み」の中で、「笑み」の意味に鋭く言及しました。その一節を御紹介いたします。
「日本人は死に直面しても微笑することができる。そして事実微笑する。そしてそのとき微笑するのも、それ以外のときに微笑するのも、理由は同じなのである。その微笑には挑戦もなければ偽善もない。また、その微笑を、われわれ西洋人がとかく性格の弱さと結び付けがちな、陰気な諦めの微笑と混同すべきではない。日本人の微笑は長い年月をかけて丹念につくりあげられた礼儀作法の一つなのである」
八雲は微笑みを礼節の象徴とし、沈黙の言語と捉えました。
ひどく落ち込んでしまったとき、どんなに身近な人であっても、どんなにありがたい言葉であっても、受け入れられないことがあります。慰め、いたわり、励ましがかえってつらく感じられることがあります。
そんな時の微笑みは言葉よりも雄弁です。
「微笑み」とは、八雲風に述べると、日本人に受け継がれた礼節の象徴であり、慈悲・慈愛を表す「無言の言葉」です。ベチシキ(苫米地式)で表現すると、非言語での内部表現書き換えです。
慈悲・慈愛に包まれたあたたかい「微笑み」を常に絶やさない存在でありたいと思います。
ところで、最近「微笑み」という言葉について、ありがたい御意見をたくさんいただいています。“あの本”の中の私のインタビュー記事に関してです(微笑)。
次回(F-004)は、そのインタビュー内容に関連したことをお伝えします。
「続・楽しいことを見つけたことで発作が止まった患者さんが教えてくれたこと」です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971739.html
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)
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