L-226202209月シークレットレクチャー -01;鍵となるのは「絶対他力」

 

20229月にコーチ向けのレクチャーを行いました。守秘義務を結んだ上で行う全3回の講義の3回目。全体を通してのメインテーマは「。目指すのは「決して過信はせずに、しっかり確信する」という意識状態の体得です。

 

 *初回(20227月)の講義はこちら↓

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/cat_431139.html

 

 *2回目(20228月)の講義はこちら↓

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/cat_431365.html

 

当日の講義内容をブログ用に再構成してお届けします。

 リラックスを深めながら、気楽にお読みください。

 

 01;鍵となるのは「絶対他力」

 

 

 いきなりですが、重要な質問をします。

 

自己実現とゴール達成は違うものです。その理由は?

 

 

 苫米地博士は、著書「オーセンティック・コーチング」(CYZO)の冒頭で、コーチングのコアは「ゴール」と「ゴールの設定」であると書かれています。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/5615935.html

 

オーセンティック・コーチング

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 コーチングのテクニックのすべてはゴールを設定し、それを達成するためにあります。ゴールこそがコーチングのすべてです。

 L-069202011月シークレットレクチャー -04;ゴールこそがコーチングのすべて

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/29018262.html

 

  コーチングのコアは「ゴール」と「ゴールの設定」であり、ゴールこそがコーチングのすべて

 

 ですが、一般向けにコーチングについて語られるとき、苫米地博士はまず「自我」の定義の確認をされます。「バラいろダンディ」(TOKYO MX)での最終講義においても、最初に自我の復習をされていました↓

 F-366:日本を世界のリーダーに! 「苫米地式次世代コーチング」

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/35313236.html

 

 自我とは、部分関数であり、重要性評価関数です。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6353425.html

 

 その自我について、苫米地博士は、著書「Dr.苫米地の『脳力』の使い方」(徳間書店、p199)の中でこのようにも表現されています。

 

 

Dr.苫米地の「脳力」の使い方

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 つまり、抽象度が上がるということは、自分の行為が何なのかということ以上の抽象的な思考を持つということであって、それを自我というのです。自分の行為の内省的な認識に意味を持たせるためには、このように、1つ上の認識が生まれなければならないのです

 

 

 抽象度が上がる」=「自分の行為が何なのかということ以上の抽象的な思考を持つ」=「自我

 

 このあたりがゲシュタルト化すると、「自己実現とゴール達成は違うもの」というのが体感を伴って理解できるはず。そんな理解を目指して、全3回の講義を作成しました。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6193912.html

 

 

ところで、全体を通してのメインテーマは「」です。

先ほどの“体感を伴った理解”を「」と関連付けながらもう少し抽象度を下げて表現すると、「『決して過信はせずに、しっかり確信する』という意識状態の体得」です。

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4448691.html

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4449018.html

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4516484.html

 

 「『決して過信はせずに、しっかり確信する』という意識状態の体得」を目指す中、私自身が体感したのは「絶対他力」というイメージでした。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6542364.html

 

 

  絶対他力

 

 

 この言葉を縁に、皆さんはどのようなことをイメージしますか?

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6353044.html

 

 以下、苫米地博士の著書「まずは、『信じる』ことをやめなさい」(泰文堂、p117)より引用します。

 

 

聖職者の論理を解くカギは、絶対他力

 信徒が洗脳にはまり、煩悩の解放にすっかり消極的にさせられているいっぽうで、聖職者は、じつは自らの煩悩の解放にかなり積極的です。

 聖職者は信徒を支配する側ですから、それ自体は想像に難くないかもしれませんが、彼らがどう考えて自らを正当化するのかという点は一考に値します。

 聖職者の論理を解くカギは、絶対他力です。

 宗教心、つまり完全な存在に対する憧れは、人間なら誰しもが持っています。

 当たり前のことですが、聖職者を目指す人は、最初から権力を求めて宗教の道に入るわけではありません。あくまで神に対する憧れが、入信の動機になっているはずです。

 しかし、長年その道に携わると、聖職者も徐々に宗教の虚構性に気づき始めます。なぜなら、教団を維持していくためには、組織の論理に従わざるをえなくなるからです。

 これは、読者の皆さんが勤め先の組織の論理に従わざるをえないのとまったく同じことです。会社には政治力学が働いているし、そのなかで生き残るためには、権力を持ちたいという煩悩に身を任せるしかありません。

 もちろん、権力を握れば握ったで、それを最大限駆使しなければ自分の思い通りに事を進めることはできないため、権力の獲得はさらに大きな権力を求める行為につながっていきます。

 煩悩の最たるものは権力の獲得ですから、権力を求めることに際限がなくなるメカニズムは、あらゆる煩悩についてもそのとおりです。よくいわれるように、欲望は満足を知らないわけです。

 聖職者たちが置かれている状況も、こうした一般のビジネスパーソンと何も変わらないといえます。

 

 さらに聖職者には、もうひとつの重要な問題に直面します。「神はいるのかいないのか」という問題です。

 思うに、神はいないという結論に達している聖職者は、おそらくいないはずです。科学によって神の不在が証明された事実を知る聖職者も、「神はいない」という認識を持つはずがありません。なぜなら、彼らは宗教による洗脳に爪先から頭のてっぺんまで浸かっているからです。しかし、歳をとるにつけ、宗教の虚構性には気づいています。

 とすると、彼らが達するのは、神がいようといまいと生きているうちに煩悩を満たさなければいいことは何もない、という結論に違いありません。

 そこで、さまざまに教義の拡大解釈を行い、たとえば妻帯を許すなどのルールの変更を行ってきました。もちろん、ルールの変更だけでなく、一般の与り知らない隠れたところで、さまざまに煩悩を解放してきたわけです。

 

聖職者が持つ煩悩

 また、なかには完全な存在を確信するがゆえに、煩悩の解放を肯定する論理も生まれたはずです。これは、イエス・キリストや親鸞が教える絶対他力にたどりついた聖職者たちが持つ考えです。

 神は、人間から最も遠い存在です。

 人間がどれほど努力したとしても、その努力によって人間が神に近づくことはできませんし、神が行う救済に何も影響を及ぼしません。絶対他力とは、完全な存在としての神に対する定義なのです。だから、親鸞が説いた悪人正機が示すように、善人と悪人の区別はなく、神は神の存在を信じる者を救うわけです。

 悪人が改心し、いまわの際で神を信じれば天国に行くことができるというのであれば、極端な話、何もいま品行方正にして戒律を守り続けなければならない道理はありません。どんなに煩悩にまみれた人生を送ろうと、最後に改心して神にすがればいいということになります。

 絶対他力にたどりついた聖職者はみな、このことをわかっています。

 加えて、いずれの宗教にも懺悔や告解など許しの仕組みがあり、煩悩に従う行為を半ば受け入れています。聖職者が過ちを犯しても、本人はそれを恥ずかしいこととして悔いるかもしれませんが、許されることがあらかじめわかっているのです。

 しかも、聖職者は信徒に許しを与える側ですから、過ちを犯した信徒の数々に接していれば、許されない一線がどんどん甘く遠のいていくのはごく当然ではないでしょうか。

 絶対他力にたどりつけば、いかに厳格な戒律を守っているように見える聖職者も、生きているうちに自分を満足させることを考えるに決まっています。

 私は、高位とされるさまざまな宗教の聖職者に会う機会がありますが、じっさい親しくなり、彼らの煩悩がいかに強いかを知りました。

 ふだんはあまねく威厳を示している彼らも、じつに人間くさく、自らの煩悩にも達観しています。これはこれで、いいわけです。

 もちろん、聖職者が持つ煩悩は、世界を支配するような権力者が持つ煩悩、つまりとんでもない悪事の企てとは異なります。戦争を仕掛けたり、人知れず大虐殺を行ったりする煩悩は許されるべきものではありません。

 その点で、懸念があるとすれば、聖職者が自分たちの権威を冒されたと考えるときでしょう。

 聖職者が持つ権力欲は、政治家が持つそれにようには強くないと思いますが、それを冒されたときの反応は政治家よりも激しいものがあります。なぜかといえば、彼らは自分たちが権威であるという確信を持っているからです。

 たとえば、ローマ法王は、自分が神の代理人だと本気で確信しています。ツイッターをする神の代理人などというのは、私にはイメージがわきませんが、彼は自分のことを本心からそう信じています。もちろん周囲もそう確信しています。

 宗教が生むこうした確信ほど危ないものはありません。完全な存在側にいるという確信は常軌を逸し、それはこの世を破壊しかねない力の暴発を招く恐れがあります。たとえば、十字軍の遠征がそうですし、いまもそれとはわからない形で戦争が起こっています。

 宗教による洗脳が世界の破局をもたらすかといえば、その可能性はいまのところ低いと思いますが、これはまた別のお話です。

 引用終わり

 

 

 絶対他力とは、完全な存在としての神に対する定義なのです。だから、親鸞が説いた悪人正機が示すように、善人と悪人の区別はなく、神は神の存在を信じるものを救うわけです

 

 不完全性定理以降の時代に生きる我々は、「完全な存在としての神」が存在しえないことを知っています。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6194669.html

 

 では、私たちは「絶対他力」をどのように理解すればいいのでしょうか?

 どのように「『決して過信はせずに、しっかり確信する』という意識状態の体得」を目指せばいいのでしょう?

 

L-227につづく)

 

 

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