F-172:アンチ(anti)からウィズ(with)、そしてウェル(well)へ -最終回- vol.4-4「死」;well-aging <ワーク付き>

 

 最近、「生命は老いるようにはできていない」「老いは治療できる病である」「もはや老いを恐れることはない」と主張(claim)する衝撃的な本を読みました。読後に医師&コーチとして考えたことをまとめます。

 

vol.1「生」;好きなことだけやる

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24281579.html

vol.2-1「老」;anti-aging <ワーク付き>

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24337669.html

vol.2-2「老」;anti-aging

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24402109.html

 vol.3-1「病」;with-aging <ワーク付き>

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24466811.html

 vol.3-2「病」;with-aging

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24549392.html

 vol.3-3「病」;with-aging <ワーク付き>

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24604120.html

 vol.4-1「死」;well-aging

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24655350.html

 vol.4-2「死」;well-aging

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24719389.html

 vol.4-3「死」;well-aging

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24786250.html

 vol.4-4「死」;well-aging <ワーク付き>

 

このように様々な縁起により、「Total」として、一人の人間の命がダイナミックに形成されています。

この「一人の命を構成しているたくさんのいのち」という関係を人類(または地球)と地球上で暮らしている70数億人の関係に当てはめると、「人類(または地球)という一つの大きな命(全体)を構成しているたくさんのいのち(部分)」が私たち一人ひとりの命であるといえます。

つまり、私たち一人ひとりはより大きな人類(地球)という生命の一部。縁起のネットワークのひとつの結び目です。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6353044.html

 

そして、ひとつの細胞がその役割を果たし終わったら次の細胞に置き換わるように、私たちはいのちをしっかり次世代につないだ後には自らを消すべき存在であるといえます。もしも人間が死ななくなると、人類(地球)が滅びます。死ななくなったがん細胞がその集合である個体を死に追いやるように。

 

個をより大きな存在の一部とみなすことこそ「Total」という概念の重要な部分です。それは「抽象度を上げること」そのものであり、仏教でいう「無分別」の実践です。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4448691.html

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4449018.html

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4516484.html

 

そして、それは“無敵”へといたる旅!

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/5446097.html

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/5448151.html

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/5615695.html

 

その旅の途中に、さらに高次の抽象度空間(情報場)への扉が開かれ、アブラハム・マズローが晩年に付け加えた「自己超越の階層」に到達します。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/9963845.html

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/9966391.html

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/10116950.html

 

では、vol.4-2「死」(F-170)で御紹介したワークに再度取り組んでみましょう。前回の答えはいったん忘れ、まったく新しい“自分”オリジナルの答えを見つけなおしてみましょう。

苫米地博士の著書「『生』と『死』の取り扱い説明書」(KKベストセラーズ)中の下記文章(前回引用のつづき)を参考にされてください。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24719389.html

 

 引用開始

 これに対して、「すべてのものは『空』であるとしても、関係性(縁起)によってそれぞれの役割があり、たとえ仮の存在であっても、その存在や現象の役割を認めて見てみようという見方が「仮観」です。

 存在そのものは「空」であっても、その「空」である存在に役割があるのだから、その役割を積極的に見ていこうとするものの見方です。「空」であることから一旦離れて、役割のほうに注目していこうという見方とも言えます。

 映画にたとえると、常に「映画というのはすべてフィクションなのだ」という視点で映画を見る見方が「空観」で、「映画はフィクションだが、そのストーリーには役割があり、意味があるので、ストーリーの中に積極的に入り込んで臨場感を最大限に感じながら、お話しをしっかりと見ていこう」という視点で映画を見るのが「仮観」と言えるでしょうか。

 そして、この二つの見方の間に立って、同時に成り立たせる見方が「中観」です。「空観」と「仮観」よりも一つ抽象度が高い見方と言えるでしょう。「空観」の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」なのです。

 「仮観」とどう違うのかと思うかもしれませんが、「仮観」は「空観」の対立項で、存在は「空」であるということを知っていても、あえてそうした見方をしないで、役割のほうを見る見方であるのに対して、「中観」は存在が「空」であることも積極的に認め、それをしっかりと認識しながら、同時に役割にも価値を置くという見方です。

 これまでの話で言えば、「妄想だとわかって宗教の壮大なストーリーに価値を見いだす」のが「中観」的ものの見方なのです。「仮観」の場合は、「妄想だが、妄想であるとは見ずに、ストーリーに浸ってしまう」見方と言えるでしょう。

 この「中観」というものの見方は非常に重要です。宗教は妄想ですが、役割があり価値があるなら、妄想だってかまわないと見るわけです。もちろん、妄想であることをしっかりと認識して、同時にその妄想に価値を認めるわけです。

 死が怖いとか、死に接して心の整理がつかないと言って、日々、悶々として生きるよりは、「いや、死は怖くないんだよ」という妄想によって明るく生きたほうがいいわけで、妄想だとわかったうえで、その妄想にあえて乗ってしまうことは何の問題もありません。

 ただし、何度も言う通り、妄想だとはっきり教えてあげないと、戦争が起こってしまいます。本気で唯一絶対の神を信じてしまったら、神が「信じないものは殺せ」と言った場合、本当に殺してしまうわけです。でも、妄想だとわかっていればそんなことは起こりません。映画の主人公が何を言っても、それに従う観客がいないのと同じことです。

 西洋の宗教で問題なのは、「空」の考え方が抜け落ちていることです。「空」の考え方がありませんから、「空観」もありませんし、「仮観」もありません。もちろん、「中観」もあり得ません。

 フィクションを実物だと思い込んでしまう思想なのです。実物だと思ってしまうと、隣の世界を認めることができなくなります。「信じるものは救われる」=「信じないものは救われない」=「信じないものは神が排除してもいいと認めている」という論理になってしまうのです。

 また、すべてのものが「空」ではなく実物であるなら、大きければ大きいほどいいと考えてしまうのも、道理というものです。ビルは高ければ高いほどいいと考え、領土は広ければ広いほどいいと考え、金(マネー)は多ければ多いほどいい、ということになってしまうのです。

 ビルも領土も金も「空」だと知っていれば、そんなものにこだわること自体が無意味だとわかるはずです。

 そもそも金(マネー)というのは、物々交換を媒介する道具です。ところがいつのまにか、その道具ばかりを増やすことに心血を注ぐようになってしまいました。すべてを本当にあるもの、実であると考えてしまったからです。

 引用終わり

 

 

<ワーク>

    人生の終わりに待つ「死」まで見据えた上で、あらためて“幸福(well-being)”を考えるとどのようなことがいえるでしょうか?

    未来から過去へと向かう時間の流れを考慮すると、「『死』がはじまり」といえます。そのはじまりにある“幸福(well-being)”とはどんなものなのでしょうか?

    人生の終着点(始発点)である「死」をどのように迎えれば(始めれば)よいのでしょうか?

    anti-agingwith-agingの先には何があるのでしょうか?

 

 

 いかがですか?

 前回(F-170)と比べて、どんな変化が生じましたか?

 

前回と今回の答えの違いは、抽象度の違いのはず。そうやって抽象度の階梯をのぼっていくことで(人間形成)、人は“The Power of Mind”を手に入れていきます。

もしも「Total」に通じるような大きな何かを感じられたなら、きっとそのちょっと先にはシンの平和が待っています。平和に至るマインドの変化が「antiwithwell」であり、そのプロセスそのものが“幸福(well-being)”といえるはずです。

 今後の「フリーテーマ」での投稿(F-176~)で掘り下げていきます。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/16799778.html

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 このシリーズの冒頭(F-163)で、「ウルマンの『悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させる元凶である』という主張(claim)が証明されたといえます」と書きました。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24281579.html

 

 厳密には、この表現は△です。因果関係を考えると、情動(悩み・疑い・不安・恐怖・失望)は結果であり、因ではないから。

 

「情動」も「若さの消滅」と同様に結果にすぎません。「マインドでの情報処理」の結果です。その情報を生みだすのはゴール。だから、コーチングが重要なのです。「ゴールがない」「ゴールが間違っている」「ゴールが不明瞭」というのが、ウルマンの言う“元凶”といえます。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24205164.html

 

Goal comes first」(by Mr. Lou Tice)ということです。

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/5615935.html

 https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/23715889.html

 

 

-関連記事-

F129~The Sweet Hello, The Sweet Goodbye

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/cat_396235.html

PM-00-06:第六章(職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題)目次

https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/15110477.html

 

 

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