F-169:アンチ(anti)からウィズ(with)、そしてウェル(well)へ vol.4-1「死」;well-aging <ワーク付き>
最近、「生命は老いるようにはできていない」「老いは治療できる病である」「もはや老いを恐れることはない」と主張(claim)する衝撃的な本を読みました。読後に医師&コーチとして考えたことをまとめます。
vol.1「生」;好きなことだけやる
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24281579.html
vol.2-1「老」;anti-aging <ワーク付き>
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24337669.html
vol.2-2「老」;anti-aging
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24402109.html
vol.3-1「病」;with-aging <ワーク付き>
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24466811.html
vol.3-2「病」;with-aging
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24549392.html
vol.3-3「病」;with-aging <ワーク付き>
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/24604120.html
vol.4-1「死」;well-aging
<ワーク付き>
…人生の終わりに待つ「死」まで見据えた上で、あらためて“幸福”を考えるとどのようなことがいえるでしょうか?
未来から過去へと向かう時間の流れを考慮すると、「『死』ははじまり」ともいえます。そのはじまりにある“幸福”とはどんなものなのでしょうか?
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…今回御紹介する本は、「死とは何か イェール大学で23年連続の人気講座」(文響社)。米国イェール大学で道徳哲学や規範倫理学を教えるシェリー・ケーガン教授の「死」をテーマとした講義をまとめたものです。原題は「DEATH」。
その本(講義)はこんな文章ではじまります。
どのような生き方をするべきか?
“誰もがやがて死ぬ”ことがわかっている以上、この問いについては慎重に考えなければなりません。どんな目的を設定するか、どのようにその目的の達成を目指すか、念には念を入れて決めることです。
もし、死が本当に“一巻の終わりならば、私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面するべきでしょう。
-自分が何者で、めいめいが与えられた“わずかな時間”をどう使っているかを意識しながら。
引用終わり
…「死」をテーマとしているはずなのに冒頭から「どのような生き方をするべきか?」と問いかけていることに興味を持ち、ワクワクしながら読みはじめました。そして、著者の描く「どんな目的を設定するか」「どのようにその目的の達成を目指すか」に大きな期待を感じながら読み進めました。
「目的」とはゴールのはずで、「目的の達成」はコーチングに通じるに違いないと思ったからです。それは「with-agingをwell-agingに引き上げる何か」であるはず。
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ところが、読後感は、with-agingを感じた「脳科学は人格を変えられるか?」よりも、むしろanti-agingの「LIFESPAN 老いなき世界」に近いと感じました。
それは私にとって想定外であり、強い違和感を覚えました。認知的不協和です。
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「LIFESPAN」の著者 デビッド・A・シンクレア教授は老化研究の第一人者です。よって、専門家であるが故にその視点が情報空間の底面(物理空間)にフォーカスされていることは理解できます。
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https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4654230.html
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/4654316.html
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一方、「死とは何か(原題:DEATH)」の著者 シェリー・ケーガン教授は哲学や倫理学が専門であり、より高次の抽象度で「死」を考察する立場です。確かに「死(DEATH)」は物理空間での現象ですが、「何か」は情報空間に存在します。
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私の無知と無理解が著者の意図をスコトーマに隠してしまうことがないように、ソクラテスの「無知の知」という忠告を何度も意識しながら読み進めました。不協和を感じるたびに。
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その上で率直に述べますが、私には著者の思考の抽象度が物理空間(または物理に近い低次元)に囚われているように感じられました。その象徴ともいえる表現を「死についての最終講義」から引用します。
魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。
そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない。
…ポイントはやはり「『存在→関係』か『関係→存在』かの違い」なのでしょう。
vol.2-2「老い」(F-165)で言及したとおり、前者の「存在があり関係が生まれる」という見方は西洋哲学がベースになっています。
そして、その見方は、物理空間では不確定性原理により、情報空間では不完全性定理によって、完全に否定されました。「アプリオリはなく、すべては決定的ではない」ということはすでに証明されています。
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対して、後者の「関係があり存在が生まれる」という見方は釈迦の縁起の思想をベースにしています。
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この「関係があり存在が生まれる」「関係が存在を生みだす」という見方は、「だから普遍的な実体などはなく、物事は常に変わりゆき、永遠に変わらないものなどない」という考え方に行き着きます。「無常」です。
さらに、「すべてのものは他との関係性の網の中で形作られていて、普遍的な実在はない」という縁起を理解することは、抽象度の軸で見たときの情報宇宙の頂点(T)とした「空(くう)」の体得を可能にします。
空とは「なによりも情報量が少なく(なにもないに等しい)、かつ、潜在的な情報量はなによりも多い(とてつもなくある)」こと。この宇宙の見方が「空観(くうがん、くうかん)」です。
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6353367.html
認知科学者 苫米地英人博士に学んでいる方々は、まずはこの空観に由っています。もちろん私もです。
だから、「私たちは機械にすぎない」「機械は壊れてしまえばもうおしまい」と断言されると猛烈な違和感を覚えるのです。抽象度の高い空間にあるコンフォートゾーン(苫米地情報場)から大きく逸脱するからです。
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/6040892.html
苫米地博士の提唱する苫米地理論は縁起ベースです。その代表が「超情報場仮説(理論)」。
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苫米地理論においては、老いや病はもちろんのこと、生と死さえも空(くう)です。空という意味では「生命=機械」「死=壊」という見方もできるのかもしれませんが、だからといって「私たちは機械にすぎない」「機械は壊れてしまえばもうおしまい」「どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、死は特別に不思議なわけではない」という結論には至りません。ゼッタイに...です。
では、どのように考えればよいのでしょうか?
anti-aging→with-agingの先にはどんな境地があるのでしょうか?
(F-170につづく)
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)
-追記-
もうひとつ、「『死』とは何か」が抱える重大な課題(ケースサイド)を御紹介します。
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/12658417.html
同書の第9講は「自殺」がテーマ。その重たいテーマを、著者は合理性と道徳性という観点で考察しています。「シェリー先生の結論」にはこのように記載されています。
合理性:原則として自殺は合理的な選択となりうるのだ。
道徳性:相手がよく考え、妥当な理由を持ち、必要な情報を得ていて、自分の意思で行動していることを確信できたとしよう。そんなケースでは、その人が自殺することは正当であり、本人の思うようにさせることも正当だと思える。
…いかがですか?
自殺に関するイェール大学教授のこの“結論”について考えてください。それが今回のワークです。これは世界平和を実現するためのとても重要なワークになります。
「anti-aging→with-agingの先にある境地」に至るためにも重要です。
https://coaching4m2-edge.blog.jp/archives/16799778.html
私の意見は次回(F-170)-追記2- 中に記します。一言です。
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