ブログ・シリーズ編

S-03:心のエネルギーとは何か? ~カナックス事件に学ぶ“心のエネルギー”をコントロールする方法~

S-03-19C)「意識化(エネルギーの情動への転換)」でのコントロール -vol.3-

 

シリーズ編第3弾(S-03)は、「心のエネルギーとは何か?」をテーマに、怒りに代表される情動の正体やその向き合い方について考察したいと思います。ぜひ皆さん自身の経験を振り返りながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-035):

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 S-03-00(目次):

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…S-03-10までの分析をシンプルにまとめると、A)概念の階層にエネルギーが生じる→B)無意識レベルでエネルギーを知覚→C)意識化(エネルギーの情動への転換)→D)物理次元で発散 といえます。「怒り」に支配されないためにはどうすればよかったのでしょうか?

 

まず、「概念の階層にエネルギーが生じる」レベルで「心のエネルギー」をコントロールするための「思いっきり概念の階層を上げてしまう」という方法についてまとめました。この方法が問題解決の本質であり、世界平和を可能とする程のパワーを持った最良・最強の解決策です。

まずは概念の階層を上がること、すなわち抽象度を上げることに挑戦してください(私も日々挑んでいます)。

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 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/21033212.html

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B)「無意識レベルでエネルギーを知覚」するレベルでの「心のエネルギー」のコントロール方法とは、「イライラなどの“違和感”を感じたときに、自身のゴールを見つめなおし、ゴール達成のためのパワーに変えてしまう」というものです。

 

次はC)「意識化(エネルギーの情動への転換)」のレベルについてまとめます。

S-03-17C)「意識化(エネルギーの情動への転換)」でのコントロール -vol.1-

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 S-03-18C)「意識化(エネルギーの情動への転換)」でのコントロール -vol.2-

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「無意識レベルでのエネルギー」をイライラなどの違和感として感じると、そのエネルギーは扁桃体の情報処理で「快」「不快」といった原始的な情動に変わります。

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例えば爬虫類など進化の早い段階にある種は、この過程で静的なエネルギーが動的なものに変わりはじめます。扁桃体で生みだされた「不快」は、攻撃行動や逃避行動を動機づけます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

この扁桃体レベルで「不快」が「怒り」に変換されるとする学説があります。ここではその扁桃体レベルの「怒り」を「爬虫類的怒り」と表現します。

 

前頭前野が発達した私たち“人間”は、より高度な情報処理を行うことが可能です。「高度」とは、「抽象度が高い」と同じ意味です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

「不快」を「喜び」や「楽しみ」と認識するようにシステムを再構築することも可能ですし(S-03-17参照)、「不快」をより高度な「怒り」という情動(感情)に変換することも可能です。ここではその前頭前野レベルの「怒り」を「人間的怒り」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/21491283.html

 

前回(S-03-18)、「ものすごく怒られたのに、じつはうれしかったという思い出はありませんか?」「ものすごく怒ったのに、むしろ感謝されたことは?」と質問しました。

いかがでしょうか?

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…Yesだった方は、その時の状況をしっかりと再現してください。

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怒られたのにうれしく思った時の(あるいは怒ったのに感謝された時の)「怒り」は、「爬虫類的怒り」ではなく、「人間的怒り」だったはずです。

 

私は「怒り」という情動(感情)自体に善悪などの価値判断はないと考えています。不完全性が働くからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

しかしながら、あきらかに異質の「怒り」が混在していることも感じています。「悪」に近い「爬虫類的怒り」と「善」といえる「人間的怒り」です。そのことを確信したのは、松下幸之助さんの下記の文章を読んだことがきっかけでした。

以下、「指導者の条件」(PHP研究所)より引用します。

 

引用開始

「怒りを持つ」

指導者は指導者としての公の怒りを持たなくてはならない

西ドイツの首相であったアデナウアーが、アメリカのアイゼンハウアー大統領に会った時、こんなことをいったという。第一は、「人生というものは七十歳にしてはじめてわかるものである。だから七十歳にならないうちは、ほんとうは人生について語る資格がない」ということ、第二には、「いくら年をとって老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということである。この二つはよくいわれることでもあり、またわかりやすい。けれども三番目にいったことはちょっとちがう。「怒りをもたなくてはいけない」というのである。

これはいささか奇異な感じがする。怒りを持つ、腹をたてるということは、ふつうはむしろ好ましくないとされている。できるだけ腹をたてずに、円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ、それが一番望ましいとだれもが考えるだろう。ところが、アデナウアーは“怒りを持て”という。いったいどういうことだろうか。

これは、単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。指導者たるもの、いたずらに私の感情で腹をたてるということは、もちろん好ましくない。しかし指導者としての公の立場において、何が正しいかを考えた上で、これは許せないということに対しては大いなる怒りを持たなくてはいけないといっているのであろう。

第二次世界大戦でどこよりも徹底的に破壊しつくされた西ドイツを、世界一といってもよい堅実な繁栄国家にまで復興再建させたアデナウアーである。その西ドイツの首相として、これは国家国民のためにならないということに対しては、強い怒りを持ってそれにあたったのであろう。占領下にあって西ドイツが、憲法の制定も教育の改革も受け入れられないという確固たる自主独立の方針をつらぬいた根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤があったのではないかと思う。

だから、一国の首相は首相としての怒りを持たなくてはならないし、会社の社長は社長としての怒りを持たなくては、ほんとうに力強い経営はできないといってもいい。まして昨今のように、日本といわず世界といわず、難局に直面し、むずかしい問題が山積している折には、指導者はすべからく私情にかられず、公のための怒りを持って事にあたることが肝要であろう。

引用終わり

 

 (S-03-20につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

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指導者の条件