F-119:公私混同(ワーク付き)

 

 F-116(:30年後の自分は何歳なのか?)において、日本の国会議員の発言を取り上げました。そのブログ記事に関連して、「最近の政治家は公私混同がはなはだしい」といった御意見をいただきました。ありがとうございます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/20682390.html

 

この場合の「公私混同」は完全にネガティブな意味で使われています。「桜を見る会」のような問題でよく用いられる表現でいうと「権力の私物化」。本来は「公」であるべきものを「私」のレベルで扱っているという意味、すなわち「公→私」という方向性での混同です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/20377720.html

 

 私は、じつは、コーチとしてクライアントのゴール設定をサポートする際に、どんどん「公私混同」するように促しています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 だからだと思いますが、世間的な「公私混同」の用いられ方に対して、つい不協和を感じてしまいます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

 実用日本語表現辞典によると、「公私混同」とは「業務上、あるいは公的に携わっている事柄と、私的な事情とを区別せずに扱うこと。業務に私情を持ち込むこと」と定義されています。「業務に私情を持ち込むこと」は「公→私」です。そういう意味での「公私混同」であれば、もちろん私も大反対。抽象度が下がっているからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 残念ながら、「公→私」といった自身の情報処理に対して無自覚であり、かつ指摘されても問題を認識できない方々は実際に存在しています。巨大で強力なスコトーマを生みだす元凶は特権意識でしょう。そして、その根底には差別があるはずです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

 それとは反対の「公←私」という方向性での情報処理(公私混同)は、「私」の定義を拡大していくことです。「家族まで含めて私と考える」→「同じ地域の人まで含めて」→「日本の」→「世界中の」のように「私」の定義が拡大するたびに、ますます大きな「公」になっていきます。それは抽象度を上げることであり、「人間形成」であるといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 コーチングは「“現状の外”にゴールを設定し、その実現に向けて能力を開放すること」を可能にします。そして、ゴールを更新し続ける過程で自然と抽象度の上限を突き破ることができるようになります。それはイマジネーションの限界を超えることでもあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_369873.html

 

 抽象度を上げる方向性での「公私混同」をどんどん続けていくと、最終的には仏教でいう「無分別」の境地にたどり着くはずです。その時、私たちはきっと“無敵”になっています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 そもそも、「公」と「私」を分けること自体が「存在が関係を生む」という西洋哲学的な考え方です。かつて構造主義と呼ばれていた時代には「部分が全体をつくる」「部分を順に見ていけば全体が分かる」「部分を順に追っていけば答えが分かる」というように考えられていました。

しかし、実際には「全体が部分から成り立っている」だけでなく、「全体と部分が双方向的に関係しており、全体が分かることで部分が分かる」のです。この全体と部分との双方向の関係を「ゲシュタルト」と呼びます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6193912.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7383761.html

 

ゲシュタルトは「関係が存在を生む」という縁起の思想に通じます。その東洋哲学的観点で考察すると、「そもそも『公』と『私』は一体」です。よって、「公←私」という意味での「公私混同」こそが、私たちが目指すべき生き方であるといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 「桜を見る会」問題では、当初は否定していましたが、安倍総理(&夫人)の友人や後援会関係者が多数招かれていたことが明らかになりました。冒頭で触れたとおり、傍から見るとその行為は「公→私」です。しかしながら、家族や友人、支持者をまるで自分のように大切に考えている安倍総理の心の中では「公←私」だったはずです。そうであれば、その方向性(「公←私」)は間違っていません。問題は「公」の上限にあります。

 

 それでは、ワークを行いましょう。「私」を思いっきり広げていくワークです。

 

 

 <ワーク:「私」を思いっきり広げていく>

1.    逆腹式呼吸を繰り返し、リラックスを深めていく

2.    リラックスが深まったら、「私」とつながる人をイメージし、その人たちとの関係そのものが「私」であることを体感する

Ex.パートナー、家族、友人、仕事仲間、クライアント(お客)

3.    さらにリラックスを深めながら、「私」のイメージを人以外にも拡大し体感する

Ex.趣味、仕事、(仕事の)業界、社会、未来

 

 

 抽象度を上げて「私」をより大きなものの一部と考えることができれば、自身はもちろんのこと、身近な人や社会にとっても、よりよい未来をみつけることができます。真のwin-winの実現です。

 その抽象度を上げた「私」、すなわち「公」の視点でゴールを設定することは、「情報を操作する(される)ことで世界を書き換える(書き換えられる)」ことを悪用しない(させない)ためにもとても重要です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/20577177.html

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 「桜を見る会」ですが、海外でも大々的に報道されたようです(英訳は「cherry blossom party」)。

その影響なのでしょうか、昨年(2019年)11月に来日されたフランシスコ・ローマ教皇は、安倍総理との会談後の講話で「日本を訪れる人は誰しも、この国の自然の美しさに感嘆します。自然の美しさは、特に桜の花の姿に象徴されてきました。しかし、桜の花のはかなさに、私たちの共通の家である地球の脆弱さをも思い出すのです」と発言されました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721658.html

 

 ローマ教皇の季節外れの「桜」発言に対して、安倍総理は「思わず舌打ちしていた」そうです(週刊現代、201912714日号)。「舌打ち」は「マインド(脳と心)での情報処理の物理空間への表出」と考えることができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14106619.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14248940.html

 

 シンプルに表現すると、「『桜』をトリガーに『疑惑』がアンカーとして引きだされ、支持率がさらに低下していくことを恐れた」と読み取ることができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/20477749.html