苫米地式コーチング認定コーチ CoacH T <タケハラクニオ> ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学びながら九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

2018/12

PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-13:仮説08)はびこる差別意識

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説08)はびこる差別意識

 

 私たち人間の情報処理は、基本的には現状維持を是としています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

 情報空間にも働くホメオスタシス(恒常性維持機能)が、過去の記憶でできあがった“自分”というイメージを強力に維持しようとします。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971818.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971956.html

 

 “自分”というイメージは、過去の記憶によりつくられたブリーフシステムであり、「関係によって浮かびあがってくるネットワーク(=自我)」ともいえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

いずれにせよ、“自分”は無意識下で現状維持を強く求めています。その現状維持という欲求は思考停止につながります。思考が停止してしまうと、ますます現状が強力に維持されます。その先に破滅が待っているのは明らかです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165658.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12794797.html
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html 

 

 

 病院の未来に強い危機感を感じていたのは私だけではありませんでした。法人内で唯一の機能・役割を担っていたベテラン職員は、ちょっとしたいざこざがきっかけで職場を追い出されることになりました。

 地域医療や業界に大きな禍根を残すことになる突然の情動的排除を目の当たりにし、私は重たい眩暈を感じました。それでもなんとかケースやプランを考察していると、経営陣の思考の根底にあるものに触れた気がしました。差別意識です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12658417.html

 

 

各施設の代表者を前にかつて理事長が語った言葉に、私は危うさを感じたことがあります。「職員は全員家族である」というものです。

「職員は全員家族である」と聞くと、ポジティブに感じる方が多いのではないかと思います。しかし、受け取り方によっては、それは危険な思想となります。

 

受け取る側が釈迦哲学で理解すれば大丈夫です。

しかし、儒教的に誤って解釈してしまうと問題が生じます。その誤った解釈により、儒教的な「アプリオリ、かつ、絶対的な違い」、すなわち「差別」が強化されてしまうことになるからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

法人の職員が取り組んでいた禅は中国から伝わり、鎌倉時代に日本国内に広がりました。そのオリジンはインドの釈迦を祖とする哲学ですが、中国で儒教・道教と強く結びついた後に日本に伝わりました。よって、釈迦オリジナルの哲学は“中国化”されています。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。「この世には初めから違い(=差別)がある」「その違い(差別)に従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

 

支配者や既得権益は、この論理(差別思想)を使ってシステムを強化してきました。

 

人類の進化途上において、かつての社会は「権力を持つ者」がそれ以外の「下々の人々」を支配し搾取するという構造でした。

「下々の人々にはそもそも権利はなく、それは支配者から一方的に与えられている」という理不尽なその構造は、“社会的洗脳”により民衆の潜在意識に植えつけられました。儒教的な「御恩と奉公」という言葉がそのいい例です。

 

長い闘争の歴史を経て、人類はより進化した構造を手に入れました。

そこでは権利は「アプリオリ(先験的)に、等しく、生じているもの」。「生来の違いなどなく、すべては(本質は)同じである」という思想は、2600年前に釈迦の縁起が示唆していたものでもあり、仏語でいう「無分別」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

「あるものと別のものを分け隔てない」というその考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」。「犬」と「猫」を同じ「動物」とみる視点であり、「動物」と「植物」を同じ「生物」と理解できる力です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

「アプリオリ(先験的)に等しく生じているお互いの権利」を活用するために(そして、守りぬくために)、契約の概念とともに様々なルールが情報空間に生まれました。

例えば、簡単には解雇できないこともその一例で、それが現代の(本来あるべき)社会の姿です。「だまし討ち」など論外で、労働基準法はもちろん、憲法で保障された国民の権利そのものを侵害しています(日本国憲法第3章第27条)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628437.html

 

 

 しかしながら、釈迦やイエスといった人類を代表する天才たちは、はるか昔から、その契約やルールであらわされる論理空間さえも超越していました。それが、釈迦のいう「縁起(大乗でいう空観)」であり、イエスのいう「神の無償の愛」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html

 

いつか人類は、抽象度を上げた結果として、オリジナルの釈迦やイエスが体感した世界に到達するはずです。ところが、地球規模でも、日本国内でも、そして身近なコミュニティにおいても、抽象度を上げるヒルクライミングとは真逆の方向の退化(劣化)が、すさまじい勢いで進んでいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

例えば、「アメリカファースト」や「都民ファースト」というのは、「アメリカとそれ以外」「都民とそれ以外」とに分別し、利害関係の中で対立を生みだす考え方です。それは「無分別」とは正反対で、抽象度が下がっています。日本国民を「私たち」と「こんな人たち」に分けて、「私たちは、こんな人たちに負けるわけにいかない」と発言するのも同じです。

いずれも空観がしっかりと維持されていれば問題はないはずですが、空(くう)が抜けていれば(つまり、儒教などアプリオリを前提とする思想であれば)とても危険です。

 

その対立を生む(空を欠いた)思考の根底には、分別を是とする差別思想がはびこっています。

 

繰り返しますが、分別が許されるのは「空観」がしっかりと維持されている場合だけです。「空」であることを十分に分かった上で、機能・役割により仮としての違いを見出すことは「区別」です。それは「差別」とは本質的に異なります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 リーダーはその違いをしっかりと理解した上で必要に応じて区別を行いますが、差別は絶対に行いません。リーダーのマインドは常に無分別です。

 

 

<仮説08:人類の進化とは真逆の抽象度を下げる思想が跋扈し、対立を生みだしている。それは身近なコミュニティでも、国家単位でもおこっている>

 

<トゥイーキング08:空仮中に立ちかえり差別と区別の違いを理解する。その上で無分別を実践する>

 

    「あるものと別のものを分け隔てない」という考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」

    しかし、現代社会はそれとは真逆の方向に動いている。対立を生む社会の根底にあるものは差別意識。私たちはその事実に気づき、無分別に取り組まなければならない

    そのために縁起の理解や、空観・仮観・中観の実践が重要

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13215570.html

 

 


Q-067:認知的不協和の状態にあり頭痛が続いています。適切なアファメーション、ビジュアライゼーションはどうすればよいでしょうか? Vol.4;生命(現象)と病の関係

 

 認知科学者 苫米地英人博士の読者の方から御質問をいただきました。セルフヒーリング&セルフコーチングのコツをイメージしながら、しっかりとまとめてみました。

シリーズ(計八本)でお届けします。

Vol.1 はじめに(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825164.html

 

 

Vol.4:生命(現象)と病の関係

 

 前回(Q-066)、抽象度を軸とした宇宙の構造について説明しました。すべては情報(情報空間)で、その底面を特別に物理空間と呼びます。

 生命(現象)も情報であり、全抽象度次元(階層)にまたがって存在しています。その生命(現象)が、写像として物理空間(という情報空間の底面)にあらわれている最初を「生」と呼び、最後を「死」と呼びます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14106619.html

 

 では、その生命(現象)と病の関係はどのように考えればよいでしょうか?

 

 

前々回(Q-065)のおわり(追記)に記してあるのですが、苫米地式コーチング(&ヒーリング)は西洋哲学と東洋哲学を包摂した立場をとります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958654.html

 

その理論的バックボーンである「超情報場仮説(理論)」では、「情報が物理空間(情報空間の底面)で実体化している」とし、物理的身体を情報の写像とみます。病は相対的な存在であり、物理空間上での自己表現です(もちろん健康も自己表現です)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165789.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165823.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165888.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306380.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306438.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5445932.html

 

違う表現をすると「病とは情報空間のバグ」といえ、仮観的には「何らかの機能・役割」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654230.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654316.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831442.html

 

 苫米地式では、病を絶対的な存在とはみなしません。そればかりか否定的なニュアンスでとらえることもしません。中観の立場をとるからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

ネガティブな情動は容易に「ファイト・オア・フライト」を引き起こします。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

情動が発火した状態では抽象度とともにIQが下がるため、病を「空(くう)なるもの」とみることも、「高い抽象度次元での情報処理の写像」とみなすことも困難になってしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

苫米地博士は「イヤな気持ちを消す技術」(フォレスト出版)の中で、身に降りかかったイヤな体験や情動を無害化するための「情動を消し去る三つの方法」を記されています。

その方法とは、1)高い抽象度で考える、2)イヤな出来事の記憶に「うれしい・楽しい・気持ちいい・すがすがしい・誇らしい」という情動感覚を結びつける、3)脳を自己発火させる、です。

 詳細はぜひ書籍で確認していただきたいのですが、その実行のための強力な方法としてコーチングがとても有効です。

 

 先程、「苫米地式では、病を絶対的な存在とみなさず、否定的なニュアンスでとらえることもしない」と書きました。それは不完全性が働くからであり、すべて縁起であるからともいえるのですが、「だから、すべてを受け入れ諦めろ」というわけではありません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 むしろ反対で、しっかり因果を観て、積極的に書き換えることを促します。なぜなら、ゴールがあるからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 そして、そのゴールを達成するために健康(の領域でのゴール実現)が必要で、時間の源流となる「病を克服した未来」を先に創造することが重要だからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

 車で例えると、「いつもと違う振動」や「聞きなれない音」をきっかけに点検と修理を行うことで事故を未然に防ぐことができます。同様に、“病”をきっかけに「情報空間のバグ」や「(その写像としての)身体のバグ」をちゃんと点検(止観&診察)し、しっかりと修理(書き換え&治療)することでゴール達成のためのバリアを克服し望む未来を手に入れることができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 「病は何らかの機能・役割である」というのはそういう意味です。

 反対にいうと、「病すら機能・役割に変えてしまう」ために、「止められてもやりたい(だけど、このままでは叶わない)ゴールが必要」だといえます。

 

 健康とはゴール設定の結果です。

そして、病とはゴール実現のために自我を書き換える大切な縁起です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

(いい言い方ではありませんが、「病はゴールを“現状の外”にするもの」とも表現できます。ベートーヴェンが「第九」を書き上げた“奇跡”は、難聴と肝硬変という“現状の外”への挑戦が生みだしたエネルギーと創造力の結実なのかもしれません)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14248557.html

 

 

 「情報空間のバグ」や「何らかの機能・役割」である病を「より高次の抽象度次元(場)で書き換えていく」という感覚を御理解いただけたでしょうか。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542426.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6681143.html

 

 

 最後にもう一言。

人はみな自由意志でゴールを設定(更新)することができます。そして、エネルギーと創造性をさらに発揮し、結果として“病”を克服し、“健康”になることができます。

 

 それが苫米地理論を学び、コーチングを実践することで、医師としての私がたどり着いた結論です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045695.html

 

 (Q-068につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 

 「情報空間のバグの点検」は「ゴールの再評価」ともいえます。ゴールが間違っていなくても、様々な要因でダイナミックにバグが生まれてしまいます。例えば、「want toがいつの間にかhave toに変わっている」もその一つです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

そういう意味でも「止観」の「一度ちゃんと止まって、しっかり観る」という習慣(ハビット)はとても重要です。観る時のポイントについては後述します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

「(情報空間のバグの写像としての)身体のバグの点検と修理」は医療の役目です。私は苫米地式のマスターヒーラーであるとともに医師でもあります。密教の世界からはじまり、西洋医学・医療を経由し、苫米地情報場ワールドへと学び進んできましたが、「物理抽象度に対しては物理抽象度でしっかり働きかけるべき」という思いは揺らぎません。

「物理次元での医療と並行して働きかけるものが苫米地式」だと私は認識しています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6854577.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7031387.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542426.html

 

 」とは、「物理次元でのへの働きかけ(医療)」と「情報次元でのへの働きかけ(苫米地式)」が、多次元的かつ同時に行われることで克服できるものだと思っています。

 

 

イヤな気持ちを消す技術(青)



F-064:「第九」に込められたベートーヴェンの思い

 

 2018年も残すところあとわずかになりました。皆さまはどうお過ごしでしょうか?

 今年最後のフリーテーマは、年末らしく、「第九」をテーマにしたいと思います。

 

 「第九」は、ベートーヴェン(17701827年)が1824年に作曲した9番目にして最後の交響曲です。正式名称は「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲 交響曲第9番 ニ短調作品125」。

 

 この頃のベートーヴェンは耳が完全に聞こえなくなっていました。その原因として鉛中毒が疑われています。当時のワインには甘味料として酢酸鉛が使われており、ワイン好きだったとされるベートーヴェンの毛髪からは基準の40100倍超の鉛が検出されています。

 アルコールによる肝硬変も患っていたベートーヴェンは、体調がすぐれなかったにもかかわらず、死の3年前にこの大作を完成させました。

 

 私が初めて「第九」を生で聞いたのは、30年程前の「(鹿児島)県民第九演奏会」でした。第3楽章までの落ち着いたイメージと打って変わって、大合唱団も加わった燃え上がるようなフィナーレにとても感動したことを思いだします。

 

 その後医師となり肝硬変の患者さんを診させてもらうようになると、重度難聴だったベートーヴェンが肝硬変さえも克服して「第九」を書き上げたことは奇跡だと感じるようになりました。

 

奇跡を引き起こしたのは、もちろん、ベートーヴェン自身です。

 「日ごとに悪化する難聴への絶望とともに、芸術家としての運命を全うするために肉体および精神的な病気を克服したいという希望を記した」とされる家族への手紙が発見されています(ハイリゲンシュタットの遺書、1802106日付)。

 希望が奇跡のはじまりだったのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045695.html

 

 希望はやがてゴールに変わり、エネルギーと創造性の源になったはず。では、そのゴールとはどんなものだったのでしょうか?

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 

 コーチングを学ぶようになってから、年末を迎えるたびにそんなことを考えるようになりました。時空を超越し、200年前のドイツ人の情報場にアクセスする感じで。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165888.html

 

そして今冬、スコトーマが外れ、ついにその謎が解けました!

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 答えは、第4楽章の歌詞中にありました。

 

 

 以下、Wikipediaより引用です。

 4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩「歓喜に寄す」が用いられる。第4楽章の主題は「歓喜の歌」としても親しまれている。原曲の歌詞はドイツ語だが、世界中のあらゆる言語に翻訳されており、その歌詞で歌われることもある。古典派の以前の音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来たるべきロマン派音楽の時代の道標となった記念碑的な大作である。

 第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されているほか、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されている。

 引用終わり

 

 引用文中のシラーとは、ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(17591805年)のことです。シラーはドイツの思想家(詩人、歴史学者、劇作家)で、ゲーテとならぶ古典主義の代表者とされています。

 

 シラーは1785年に「自由賛歌」を発表しています。1785年はアメリカ合衆国が独立する前年。この時代の自由とはfreedomのことで、民衆が王族支配から自由になるという意味でした。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 ドリームキラー化した既得権益(王侯貴族)対策なのでしょうか、シラーは「自由賛歌」の詩を改訂し、タイトルも「歓喜に寄す」と変更して出版しました。その本を手にしたのが、当時15歳だったベートーヴェンです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6854056.html

 

 それから約40年の間、ベートーヴェンの心にはいつも自由を希求する思いがあったに違いありません。そして、その思いがついに「第九」となり、物理空間に結実したのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 ベートーヴェンの思い描く自由の先には、もっと抽象度が高く壮大なビジョンがありました。さらに先のゴールの世界です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 

 2007年から7年半にわたりフィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者を務めるなど国際的に活躍されている指揮者 篠崎靖男氏は、「必ず合唱団に話す(「第九」)曲中の歌詞がある」とビジネスジャーナルでの連載記事内に書かれています(「世界を渡り歩いた指揮者の目」、2018.12.15)。

 

 それは「Alle Menschen werden Brüder」という一節です。日本語訳すると「すべての人々が兄弟となる」という意味。この部分は、シラーの1785年初稿では「物乞いは君主らの兄弟となる」というものだったそうです。

 

篠崎氏は、「この“兄弟”というのは、“仲間”という意味です。つまり、貴族であっても、平民であっても、物乞いであっても、みんな同じ。国籍、年齢、性別、肌の色、宗教すべてを乗り越えて、全世界の人たちが仲間になろうという、強いメッセージです。これを年末に歌いあげる日本という国は、なんと素晴らしいのだろうと、僕は思います」と記されています。

 

 私もまったく同じ思いです。何の音楽的素養もないはずの私ですが、「第九」を聞くと確かに心が揺さぶられるのは、シラーやベートーヴェンが創造した高い抽象度の情報場に触れているからだと納得しました。そのイメージを無理やり言語化すると“無敵”!

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 

 さて、2018年は皆さんにとってどのような年だったでしょうか?

 そして、2019年はどのような一年になる(する)と思い描いていますか?

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 

 大国のトップが堂々と「自国ファースト」と叫ぶ時代だからこそ、私たちは未来に向けて高らかと「第九」を歌うべきなのかもしれません。シラーやベートーヴェンの思いとともに。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 ところで、なぜ年末に「第九」が演奏されるのか御存知ですか?

 

 答えは「楽団員の年越し費用を稼ぐため~」だそうです。

 「チコちゃんに教えてもらった」という(私の)家族に教えてもらいました(笑)。

 

 

【お知らせ】

 2019126日(土)、鹿児島市でコーチングセミナーを開催します!

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14188687.html

 

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

 

Beethoven(Wiki)

ベートーヴェン
Wikipediaより引用

 



PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-12:仮説07)思考停止

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説07)思考停止

 

 前回(PM-06-11)は「私憤」と「公憤」の違いについて、脳の機能や人類の進化と絡めて説明しました。
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14107083.html 

 

 亡くなった先代の院長はもちろんのこと、経営陣の皆さんもいつも情動的だったわけではありません。抽象度の低い煩悩的なゴールのために医療・社会福祉法人を運営しているわけでは決してありませんでした。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

そのことは病院長として経営陣と関わりながらしっかりと感じていました。それだけに「人間形成」「人材育成」という経営の重要事項に関して「私憤」レベルであり続けることが不思議でなりませんでした。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

「何が問題なのか?」を私の無意識は考え続けていたのだと思います。ある日の午後、病棟に張り出された懇親会の案内を眺めていたときに、その答えが急にひらめきました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721658.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7383761.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628437.html

 

その案内には、ブルース・リーの写真とともに、「考えるな、感じろ」というコピーが書かれていました。

 

 

「考えるな、感じろ (Don’t think. Feel.)」という言葉は、「燃えよドラゴン(英題:Enter the Dragon)」という映画の中での主人公の台詞です。

 

ここでいう「考えるな(Don’t think)」というのは、「思考、つまり情報処理活動をするな」という意味ではなく、「言語情報処理をするな」という意味です。

 

詳しくは「言語により構築された世界(抽象世界)を超えて、非言語情報処理を行え」という意味。その「非言語情報処理」を「感じる(Feel)」と表現しているのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542426.html

 

脳の機能でいえば「前頭前野外側部を抑えて、前頭前野内側部を活性化させよ」ということであり、苫米地理論でいえば「左脳言語野の活性を抑え、右脳言語野を活性化せよ」ということです。

それは天才が行っている脳の使い方であり、達人が到達している究極の境地です。

 

法人で取り組んでいた禅も「言語情報処理を非言語情報処理優位におきかえる方法」です。その前提として言語情報処理についてしっかり理解・体得していなければ、つまり認知科学や機能脳科学について学び、ディベートなど実践を通じて論理的思考を磨きあげていかなければ、到底マスターすることはできません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11594310.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

禅に取り組み、「空(くう)」を体得することを目標としていた法人にとって、その前提となる顕教的な知識とスキルを得ることはとても重要だったはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

法人のゴール達成のためにも、私は自分が学んできた知識やスキルを開示し続けてきました。守秘義務の境界ギリギリで。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

「前頭前野外側部を抑えて、前頭前野内側部を活性化すること」「左脳言語野の活性を抑え、右脳言語野を活性化すること」は究極の思考といえます。

 

それは第五章で取り上げた教育という観点から考えてもとても重要です。自由に大きく関係するからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124525.html

 

非言語情報処理が行えるということは、世の中にはびこる言語束縛から逃れているということであり、より抽象度の高い世界で生きているということです。

より情報量の少ない世界に高い臨場感を感じているのですから、それだけ自由であるといえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 その自由の対極にあるのが「思考停止」です。
 ブルース・リーの例えでいえば、「Don't think」だけで「Feel」がない状態。

今回の事例でいうと、情動的なレベルにとどまり続けた経営陣は思考停止の状態だったといえます。「ファイト・オア・フライト」を克服しようとせず、自ら自由を手放したのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

さらに残念なことに、コンフォートゾーンを同じくするスタッフに、そのような生き方を強いているように見えました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

「バイオパワー(生権力)」の行使です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

では、なぜ自ら思考停止してしまったのでしょうか?

 

 

答えは、おそらく、そのほうがラクだから。それはとても危険なことであり、リーダーが一番避けなければならないことです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628746.html

 

釈迦はアプリオリなものはないということを悟りました。そして、その真理はクルト・ゲーテルにより示され、グレゴリー・チャイティンにより完全に証明されました。それを「不完全性定理」といいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

不完全性定理以降の現代に「絶対に正しいもの」はありません。「唯一のモノサシ」は存在しないのです。それは「人類はどこまでも考え続けることができる」「さらに進化・向上することができる」ことを示唆しています。

 

釈迦が見いだし、大乗の発展の中で完成された「空」の哲学は、私たちに思考し続ける生き方を促しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

「思考せず奴隷として生きるか、思考し続け自由を手に入れるか」それを思考し、自ら選択することが、現代を生きる私たち一人ひとりに求められているといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10543825.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10543909.html

 

 そして、それは組織や会社という小さい単位の話ではなく、社会全体や未来の存続に関わる重要な問いかけであるといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 

仮説07:思考停止していないか?>

 

トゥイーキング07:言語を超えた思考を続け、自由を手に入れる

 

    「前頭前野外側部を抑えて、前頭前野内側部を活性化すること」「左脳言語野の活性を抑え、右脳言語野を活性化すること」は究極の思考法

    不完全性定理が証明された現代の生き方を極論すれば、「思考せずに奴隷として生きる」or「思考し続け自由を手に入れる」の二択

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

思考停止という病



PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-11:仮説06)二つの「怒り」とその間にある論理的思考

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説06)二つの「怒り」とその間にある論理的思考

 

 Panasonicの創始者である松下幸之助さんは、著作「指導者の条件」(PHP研究所)の中で、「指導者は、指導者としての公の怒りを持たないといけない」と書かれています。

 

 父親譲りの「瞬間湯沸かし器」を自認していた私は、初めてこの言葉にふれたときに衝撃を受けました。「どのようにして怒りを鎮めるか」「怒りといかに無縁になるか」ということばかりを考え、怒りという情動(感情)を完全にネガティブなものと捉えていたからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

「公の怒りを持たなければならない」という言葉に触れ、スコトーマがガツンと外れた気がしました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 苫米地理論を学ぶようになり、怒りという情動についても、「善悪」など価値判断をするための絶対的な基準はないことを理解しました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

「善悪」はその人のおかれた状況により変わります。そして、その状況はゴール設定により自らつくりだすものです。

(組織の場合、状況はリーダーがゴール設定によりつくりあげます)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

ただし、怒り自体にアプリオリな意味はありませんが、明らかに性質の違う二種類の怒りが存在しています。「動物的怒り」と「人間的怒り」です。松下幸之助さんの表現に当てはめると、「動物的怒り」は「私憤」、「人間的怒り」は「公憤」といえます。

 

「動物的怒り」「私憤」とは扁桃体レベルでの価値判断であり、低い抽象度の階層での怒りです。「ファイト・オア・フライト」時にみられる感情的な怒りともいえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

それに対して、「人間的怒り」「公憤」とは前頭前野レベルでの価値判断であり、高い抽象度の階層での怒りです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 

 私たちの脳には階層性があります。その階層性は脳の進化と関係しています。

脊椎動物の脳は、脳幹、小脳、大脳で構成されています。この基本構造はどの脊椎動物でも共通ですが、各パーツの大きさやその機能は進化の度合いで大きく異なっています。

 

魚類や両生類の大脳は大脳辺縁系だけで大脳皮質はありません。爬虫類には大脳皮質がありますがごく小さいもので、大脳辺縁系がほぼむきだしです。

大脳辺縁系は旧皮質といわれる「本能を司る脳」で、食欲や性欲などの本能や、怒りや恐れといった原始的な感情に関係しています。

 

鳥類や哺乳類の大脳皮質は大きく発達しており、運動野や感覚野といった高度な機能を持つ部位がここに宿っています。鳥が巧みに空を飛んだり、哺乳類が素早く行動できるのはこの大脳皮質の働きのおかげです。

哺乳類でも霊長類になると、大脳皮質に連合野が現れます。その中でも、思考や創造、推論、意欲、情操といった人間ならではの行動の源、さらには自我や意識などの根源と考えられているのが前頭前野です(前頭連合野とも呼ばれます)。

 

ちなみに、大脳皮質に占める前頭前野の割合は、ネコが3.5%、サルで11.5%、人間では30%といわれています。霊長類の中で最も進化した人間が、高度な認知や行動を行えるのはこの前頭前野のおかげです。

 

さらに前頭前野は、論理的な判断をつかさどる外側部と社会的情動にかかわる内側部に分かれます。ディベート中に活性化するのは、論理脳である前頭前野外側部です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

このように階層性は脳の進化と関係しており、進化した脳ほど抽象度は高く、階層的に高い世界に臨場感を感じることができます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

余談ですが、教育の目的は、人類の進化といえるこの脳の変化を、個人の成長に落とし込むことです。それは「人間形成」という形で実現していきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 

階層的に上位にある脳は低位にある脳よりも優位にあるため、その情報処理に容易に介入することができます。ところが、第四章でも御紹介したとおり、危機に瀕すると「ファイト・オア・フライト」という心理状態に陥り、上位であるはずの前頭前野の活動が抑えられ、扁桃体を含む大脳辺縁系の活動が活発になります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

これはより確実に生き残るための本能的な働きではありますが、人間らしさを失い、ただの動物に成り下がってしまう原因にもなります。

今回のテーマでいうと、前頭前野での怒りが「人間的怒り」「公憤」に相当します。「ファイト・オア・フライト」の状態での大脳辺縁系での怒りが「動物的怒り」「私憤」です。

 

まとめると、進化の過程で「私憤」→「論理」→「公憤」となりますが、不安・恐怖がコントロールできないと突然「私憤」優位に陥ります。その様をSW風に表現すると(笑)、「ダークサイドに堕ちる」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11594310.html

 

 この章(第六章)で取り上げている事例でいうと、「私憤」が 1)組織を囚人化し、2)代案を失い、3)想像力を封印する結果を招いたといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

 

繰り返しになりますが、「公憤」が大切なのは「高いIQを維持したまま、問題の本質を見極め(ケース)、解決策を見つけるため(プラン)」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12658417.html


 さらに、「現状を打破するための大きなエネルギーを生みだすため」という理由もあります。
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

超情報場仮説(理論)では、抽象度が上がるほどポテンシャルエネルギーが大きくなると考えます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165789.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165823.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165888.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306380.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306438.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5445932.html

 

つまり、大きなエネルギーを得るために高い抽象度を意味する「公」が重要で、そのエネルギーをしっかりと物理空間で発揮するために「憤」が必要なのです。

 

 松下幸之助さんが「指導者の条件」で伝えたかった「公憤」とは、“現状”を打破する鍵となるものです。創造的破壊のポイントともいえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628746.html

 

 リーダーは、「私憤」に陥らないように気をつけながら、「公憤」を保ち続ける(燃やし続ける)必要があります。それを可能とするのは抽象度の高いゴールとその達成の確信です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 

<仮説06:人類の脳は「私憤」→「論理」→「公憤」と進化してきたが、不安・恐怖などをきっかけに容易に「私憤」に陥ってしまう。「私憤」を克服し、「公憤」を維持するために抽象度の高いゴール(の共有)が必要>

 

<トゥイーキング06:ゴールを更新し続けることで、公憤(公の怒り)を燃やし続ける>

 

    人間の脳は「私憤」→「論理」→「公憤」と進化してきた

    「私憤」とは「動物的怒り」で扁桃体・大脳辺縁系の活動。「公憤」とは「人間的怒り」で前頭前野内側部の活動

    その間に前頭前野外側部の活動である論理がある

    不安・恐怖をコントロールし前頭前野優位をしっかりと保つことで、高い抽象度のエネルギーを利用することが可能となる

    そのために「ゴール設定」が必要

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

二回目のPX2を開催してはならない理由を経営陣に質問しましたが、なかなか明確な返答は得られませんでした。コメントの多くは情動(感情)レベルで、「私憤」に思えました。そんな経営陣に対し、私は「公憤」を貫いたと思っています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7702480.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7702640.html

 

 

指導者の条件



I-024:【告知】コーチングセミナー開催(190126、鹿児島県鹿児島市)のお知らせ

 

 

 2019126日(土)に、鹿児島県鹿児島市で、一般向けのコーチングセミナーを開催します!

 

 

第一部は無料です。

重要なコーチング用語(ゴール、エフィカシー、スコトーマ、コンフォートゾーンなど)について解説しながら、“マインドの不思議”を楽しく体感していただきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

速報(I-023)では「中学生以上を対象」としていましたが、小学校高学年から御参加いただけるように変更しました。気軽に参加してください。

 第一部はもちろん、第二部も学生(小学校高学年以上、浪人生含む)は無料招待です。

(第一部・第二部とも高校生までの学生は保護者の参加が必須)

(保護者1名につき無料招待する学生の数に上限なし。ただし事前登録が必要)

 

 

第二部は有料(5000円)です。

 第一部の体感を活用しながら(そして、さらに驚いていただきながら)、スコトーマをコントロールするためのコツを体得していただきます。

メインは「スコトーマに隠れているゴールを見つける(創造する)ためのワーク」です。

 

 未来のイメージをつくりだし(ゴール設定)、それを強化していく(臨場感↑)と、そのイメージは“現実化”します。そのプリンシプルを方程式化したものが「I×V=R」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

最近「ゲーム障害」が国際疾病分類に追加されました。カジノが解禁される日本では、ますます自分をコントロールする技術が重要になります。そのエッセンス(I×V=R)を、コーチングの知識とともに、楽しく学んでいただきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825013.html

 

ぜひ、「未来から時間が流れ、その未来のために全力で楽しむ(奮闘する)という感覚」をお持ち帰りください。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13626536.html

 

 それはゲーム障害等を克服するという次元にとどまらず、真の健康を実現する大いなる力になるはずです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7859896.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045695.html

 

 医療・介護に携わる方や教育関係者(教師、塾講師、子育て中の方など)はもちろん、(いい意味で)医療に縁のない方もぜひ御参加を。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293317.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8430972.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11301259.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/11386276.html

 

 

 参加御希望の方は、下記メールアドレスに御連絡ください。
 申し込み(メール):coachfor.m2@gmail.com
 

 (件名を「190126鹿児島コーチングセミナー申し込み」としてください)

 (仮登録済みの方は申し込み不要です。こちらから御連絡いたします)

 

 第一部だけ、または第二部だけの参加も大歓迎!

 当日、会場でお会いしましょう !!

 

 

 

<タイトル> 

鹿児島コーチングセミナー 2019-01 A NEW HOPE

~スコトーマのコントロールと「夢をかなえる方程式」の実践~

 
<主催者>
 苫米地式認定コーチ 竹原邦雄 / CoacH T

<日時>

 2019126日(土)

  第一部(無料):15時~16

  第二部(有料):1630分~18

 (第一部のみ、または第二部のみの御参加も歓迎)

 

<会場>

 鹿児島県鹿児島市

 (詳細は申込者に別途通知)

 

<参加費用>

 第一部:無料

 第二部:5000

  学生(小学校高学年~、浪人生含む)は無料。ただし、高校生以下は保護者同伴が必須

  保護者1名につき無料招待の学生に上限なし。ただし事前登録が必要

 

<対象>

 コーチングに興味のある方

 人生や社会をもっと良くしたいと思っている方 など

 「教育関係者」「医療・福祉関係者」「子(孫)育て中の方」はとくに歓迎

 (学生は無料招待。ただし事前登録が必要)

 

<お問い合わせ>

 coachfor.m2@gmail.com

 

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

181223 ブログ案内用(第二弾、告知)



Q-066:認知的不協和の状態にあり頭痛が続いています。適切なアファメーション、ビジュアライゼーションはどうすればよいでしょうか? Vol.3;宇宙の構造と生命(現象)の関係

 

 認知科学者 苫米地英人博士の読者の方から御質問をいただきました。セルフヒーリング&セルフコーチングのコツをイメージしながら、しっかりとまとめてみました。

シリーズ(計八本)でお届けします。

Vol.1 はじめに(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825164.html

 

 

Vol.3;宇宙の構造と生命(現象)の関係

 

前回(Q-065)、「『すべては決定的ではない』という事実は、西洋哲学(医学)から東洋哲学(医学)へのパラダイムの転換を求めている」と書きました。そして、「そのパラダイムシフトの鍵となるものは医療現場にすでに広がりつつあり、『超高齢化社会』における医療の重要なポイントである」とも。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958654.html

 

その“鍵”とは「抽象度」です。

 

 

抽象度とは、情報空間における視点の高さを表すもので、分析哲学の中の存在論における「Levels of Abstraction」という概念の日本語訳です(日本語訳の際に「抽象度」と造語されたのは苫米地博士)。

「抽象度が上がる」ほど具体的な情報は減り、より抽象的になっていきます(ただし、上位に上るほど潜在的な情報量は多くなる)。反対に「抽象度が下がる」ほど情報量が増え、より具体的となっていきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 情報空間とは、「人が認識する世界のすべて」です。

私たちは五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)および言語という六つの情報入力経路(=モーダルチャンネル これも苫米地博士の造語)により得られた情報を処理して、「世界」を認識しています。

私たちにとって目の前の世界とは、どこまでいっても情報だけで構築されている「情報空間」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654230.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654316.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831442.html

 

 その「情報空間」のうち、五感ではっきりと感じられる世界のことを特別に「物理空間」と呼びます。物理空間には物理法則という共通のルールが存在します。それは「制約」や「秩序」と言い表すこともできます。さらには「恒常性維持機能(ホメオスタシス)」と考えることもできます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971818.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971956.html

 

つまり、「物理空間(という情報空間の一部)を底面として、抽象度という軸上に階層性をもって広がっている情報空間」が宇宙の構造なのです。抽象度が上がるほど情報量が減っていくのですから、宇宙は四角錐のような構造とイメージできます。

(物理空間が四角の平面であるという意味ではありません)

 

 

宇宙の構造

 

 

 生命(現象)は、情報空間と(情報空間の底面である)物理空間に、同時かつ連続的に存在しているものです。情報が物理空間に写像としてあらわれた瞬間が「生」であり、物理空間に存在し得なくなった瞬間が「死」といえます。

 

 しっかりイメージしていただくために、PM-01-16(超情報場仮説-6)でも御紹介した認知科学者 苫米地博士の著書(「人間は『心が折れる』からこそ価値がある」PHP)から再度引用いたします。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

 

 

引用開始

言葉で表現しようとすると、「何となく、レストランとわかる」としかいえませんが、「超情報場」でレストランを認識しているからこそ、物理空間における「レストラン」の存在を認識できるのではないかと考えたのです。

 抽象度の次元を上げていけばいくほど、圧倒的に情報処理が効率化されます。抽象度の高い次元から抽象度の低い次元を見れば、多くの一見ランダムに見える情報を整合的に判断できます。

 たとえば、私たちは平面に描かれたイラストを見ただけでも、それが何かを判断できます。三次元の世界を知っていて圧倒的に多くの情報量を持っているので、二次元のイラストを見ても何であるか想像がつきます。

 我々は三次元の「ボール」を知っていますから、平面の丸い形を見ても、「ボールではないか」と立体物をイメージできます。しかし、もし二次元しか知らない人がいたとしたら、平面の丸い形から、とてもではありませんが立体のボールは想像できないのではないでしょうか。

 同じように、次元の高い「超情報場」で「レストラン」という認識ができあがっている人間だからこそ、物理空間の多種多様なレストランを見て、「ああ、これはレストランだ」と認識できるのではないかと理論化されるのです

引用終わり

 

 

 この引用文中の例えを利用すると、生命(現象)という「三次元のボール」が、イメージ上二次元の平面で表される「物理空間(という情報空間の底面)」を通過することが、「生老病死(人生)」であるといえます

 

平面上をボールが上から下に向かって通過する(横切る)様子をイメージしてください。

 

 

平面に「三次元のボール」の下端が触れた瞬間が「生命の誕生」

通過するたびにだんだん大きくなることが「成長」

半分を過ぎだんだんと小さくなることが「老化(老衰)」

(その過程であらわれる変化が病)

「三次元のボール」の上端が平面から離れた瞬間が「死」

です。 

 

 

 引用文のレストランの例と同じように、「次元の高い『超情報場』で『生老病死(人生)』という認識ができあがっている人間だからこそ、物理空間の多種多様な生き様や死に様を見て、『ああ、これは人生だ』と認識できるのではないかと理論化できる」ことになります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

 

Q-067につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

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F-063:バイオパワー(生権力)-後編-

 

 シリーズ編「S-01-19:コーチング的視点で考えるバイオパワーの問題」に関連してたくさんの御意見をいただきました。ありがとうございます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13076797.html

 

 フーコーの「監獄の誕生」を片手に、あらためてバイオパワーについて考えてみました。三回に分けてまとめます。

前編:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825013.html

 中編:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958415.html

 

 

今回は、「バイオパワー(生権力)」について、身近な例で検証します。

 

もともと「バイオパワー(生権力)」は、功利主義の原理を確立したイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサム(17481832年)の「パノプティコン」という概念がもととなっています。この概念を拡大して、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(19261984年)が著書「監獄の誕生」(1975年出版)で提示した概念が「バイオパワー(生権力)」です。

 

「パノプティコン」とは、最小限の監視費用で犯罪者の更生を実現するための装置として考案された、監獄を見張る一望監視システムのことです。監獄に設置された高い塔の上に看守がいて、その看守たちが囚人を見張ります。いつも監視されているわけではないのですが「見られているかもしれない」という不安・恐怖が監獄からの逃亡や暴動を防ぎます。

 

フーコーは、そこに「バイオパワー(生権力)」が働いていることを看破しました。

 

我々のまわりには、いつの間にかたくさんの「パノプティコン」が仕掛けられています。その1つが監視カメラです。監視カメラは我々の生活に入り込み、いつの間にか“あたりまえ”になってしまっています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

監視カメラが“増殖”するきっかけになったのが、2001911日のアメリカ同時多発テロです。アメリカ合衆国を中心とした報復の結果、アフガニスタン紛争、イラク戦争が起こりました。そこにある構図はキリスト教VSイスラム教という宗教的対立です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 

例えば、イギリス国内にもテロをきっかけにたくさんの監視カメラが設置されました。しかし、その大半はロンドンに住むイスラム教系の店や学校に向けられたものだったそうです。その事実が報道され大きな社会問題となると、警察は「方法を間違った」ため「カメラの撤去を検討する」と発表しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721658.html

 

イスラム系の人々は、疑惑の目(=監視カメラ)が向けられたことに猛烈に反発しました。イスラムの神を冒涜されたと思ったからです。しかしながら、疑惑の目(=監視カメラ=パノプティコン)自体が不自由に感じられたことも大きかったのではないでしょうか。「見られているかもしれない」という状況に本能的に嫌悪感を感じたはずです。

 

 

「監視カメラ」に関して、私にも思い出があります。

子どもの頃、治安が悪い地域のマンションに住んでいました。ある時、エレベーター内で女性が乱暴される事件が続いたことをきっかけに、エレベーターホールとエレベーター内部に監視カメラが設置されることが決まりました。ところが、予算の関係なのか、設置されたカメラはすべてダミーでした。

カメラがじつは偽物だとこっそり教えてもらい驚いた私は、その後もっと驚くことになりました。なんと偽物のカメラが設置された後、エレベーターでのトラブルがなくなったのです。

 

「バイオパワー(生権力)」が犯罪行為を抑止したのです。人を従順に変えたともいえます。

 

当時の技術でもカメラ自体を隠せたはずなのにわざわざ目立つように設置されたのは、犯人を捕まえることが目的なのではなく、犯罪を未然に防ぐことが目的だったからです。そのような「人の行動に影響する見えない(目立たない)力」が「バイオパワー(生権力)」です。

 

見渡せば「バイオパワー(生権力)」は世の中にあふれています。「車盗難防止装置がついています」とわざわざ表示するステッカーや車内でピコピコ光る赤い光、立派な家にベタベタ張ってあるセキュリティのシール、禁煙を呼びかけるポスター、消費電力が多くなると警告音を発する装置 すべてが間接的に人をコントロールすること(方向づけること)を目的に使われています。そこに「バイオパワー(生権力)」が働いています。

 

もちろん「バイオパワー(生権力)は絶対悪」といいたいのではありません。是非の解釈は人の心に因ります。その心での情報処理を決めるものはゴールです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

災害やデモのたびにあさましい略奪行為が発生するような地域では、秩序を維持するために、仏教的に表現すると煩悩をコントロールするために、「バイオパワー(生権力)」が必要とされているのかもしれません。未熟な自由は組織や社会を破壊します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10691753.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 

しかし、少なくとも、これからの日本においては、もはやお互いを拘束しあう意味での「バイオパワー(生権力)」は必要ないはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12794797.html

 

自由を奪いあうドリームキラー的な「バイオパワー(生権力)」ではなく、お互いの自由を守るためのドリームサポーター的な「バイオパワー(生権力)」を、各自の自己責任で選択する時代が始まっていると私は思っています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

真の教育が行われた結果として「人間形成」が実現する社会では、「バイオパワー(生権力)」にコントロールされるのではなく、「バイオパワー(生権力)」をコントロールすることができるようになります。そして、次第に「バイオパワー(生権力)」自体を必要としなくなっていきます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

抽象度の階梯を上がっていくことを意味するその社会的変化の鍵となるものが、苫米地理論やコーチングです。マインドでの情報処理を、自らの自由意志でコントロールすることができるようになります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 それは「バイオパワー(生権力)の呪縛から脱し、人間らしく生きる」ための大切な縁起といえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

最近は自動販売機に付属したカメラでも顔認証ができるようです。「顔認証ができる」とは「個人が特定できる」ということであり、「バイオパワー(生権力)が生まれる」ということ。顔どころか、歩き方や体型でも個人が特定できるような技術開発が進んでいるそうです。

すべての言動が監視され、評価(点数化)されることで、自由が奪われてしまう時代はもうすぐそこまで迫っています。

 

 パノプティコンへの対応、つまり「コーチングの実践により自らを自由自在にコントロールするという対策」は、もう「待ったなし」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 「バイオパワー(生権力)」の古い例として、「踏み絵」があります。踏み絵は江戸幕府が当時禁じていたキリスト教信徒を発見するために使用したもの。転じて「ある事柄への該当者や反対者をあぶりだす方法」を意味するようになりました。

 昔の踏み絵は直接的に人を苦しめましたが、現代の踏み絵はいつの間にか人の心に入り込み、静かに蝕んでいきます。例えば、誓約書や嘆願書に署名させることによる無意識へのヒエラルキーの刷り込み。強制(矯正)された人々は、不安・恐怖や義務感、罪悪感を背負うことになります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

 「バイオパワー(生権力)」により「have to」が生じるのも、「want to」を取り戻すのも、すべては自身のマインド(での情報処理)次第です。

 

 

アメリカ同時多発テロ事件(Wiki)
Wikipediaより引用

PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-10:仮説05)権利と義務の関係の理解不足

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説05)権利と義務の関係の理解不足

 

 前回仮説として取り上げた「自由に伴う責任の認識不足」は、権利と義務の本当の関係についての認識不足とも関係しています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958864.html 

 多くの人は、権利と義務の関係を、「権利があるから義務がある、義務があるから権利がある」という補完の関係と誤って認識しています。しかしながら、正確には「権利があって初めて義務が発生する」という権利が主、義務が従の関係です。

 

 私の例でいうと、経営は院長の権利であり、義務ではありません。どんな権力(既得権益)であったとしても、ディベートによる論理的な検証を経ずに、一方的にその権利を奪うことは許されません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

私が「人間形成」「人材育成」という経営を断念したことは「権利の放棄」です。経営陣の判断云々の前に、私自身の意志による権利の放棄が先にあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

だから私は、経営の権利を引き継いだ経営陣が人材育成のために何を行おうと、スコトーマを外すために助言することはあっても、非難や妨害をするつもりはありませんでした。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 

 「権利が主、義務は従」という正しい関係性の理解は、コーチングにおいてもとても重要なポイントになります。

 

 社会や身近なコミュニティ内に存在するあらゆるマナーやルールに紐づくものは、義務ではなく権利です。それらが権利だとわかれば積極的に守ろうとし、運用しづらければすぐに改めようとするはずです。

一方で、マナーやルールが義務だと思うと何とか抜け道を探そうとするのが、「プッシュ・プッシュバック」や「創造的回避」と表現されるひとの性です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882703.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

権利だとしっかり自覚することで、その行動は「want to」になります。権利を行使するにしても放棄するにしても、そこにあるのはゴールに向かうベストな判断です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

反対に、義務だと感じた途端に「have to」になります。その状態では豊かな才能を発揮することはできません。行き過ぎた義務感は、不安・恐怖や罪悪感とともに人を霧の中に閉じ込めてしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

 

 余談ですが、義務教育という言葉も、権利と義務がひっくり返っています。

本来、教育は国民の権利であって、義務ではありません。教育を受ける権利が先にあり、それを満たすために子どもに教育を受けさせる義務が親に生じています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124525.html

 

 「子供たちの豊かな才能を引きだすために、義務教育という言葉は権利教育と言い換えるべきだ」という認知科学者 苫米地博士の主張(クレーム)に、もちろん私も賛成です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12340209.html

 

 

<仮説05:権利と義務の関係の理解不足が「have to」を生みだし、エネルギーや創造性を封じ込めてしまう>

 

<トゥイーキング05:「権利が主、義務は従」という関係をしっかり理解し、チームで共有しているゴールに向かって日々をフルに生きる。もちろん100% want toで>

 

    権利があって初めて義務が発生する

    権利だとしっかり自覚することで、その行動は「want to」になる

    権利を行使するにしても放棄するにしても、そこにあるのはゴールに向かうベストな判断

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

 もう一つ余談を。医療や福祉においても、権利と義務がひっくり返っています。

例えば、健康は国民の権利であって、義務ではありません。それをひっくり返すような思考は憲法違反といえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_277070.html

 

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-09:仮説04)自由と責任の関係の理解不足

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説04)自由と責任の関係の理解不足

 

 通俗編(つうぞくへん)は、清の時代の中国の書物です。

当時の日常用語を集めて分類し、その出所を明示したもので、天文・地理・時序など三十六に分類されています。

 

その中に「疑勿用、用勿疑 疑わば用(もち)うるなかれ、用いては疑うなかれ」という一文があります。「疑ったら使うな、使ったら疑うな」と現代語訳できるこの文は、「信頼のおけない人間は初めから登用するな、これはと見込んで登用したらとことん信頼しなさい」という意味で使われています。

 

さらに踏み込んで「登用したものを信頼する」とはどういうものかを考えると、「自由と責任」に行き着きます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

以前も触れましたが、2007年に院長就任を依頼されたとき、私は「人材育成という経営」については全力で取り組むことを理事長に約束し、経営陣にも了承してもらいました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523887.html

 

その時、自らその成果に対して責任を負ったと同時に、その実行のための自由(裁量権)を得たと理解しました。

もちろん、だから好き勝手にしようとは思わず、「なぜそれを実施する必要があるのか(ケース)」「それを実行することでどうなるのか(プラン)」を論理的に説明し、理事長はもちろんのこと、経営陣の同意もいただきながら実行していきました。それはマナーだと思っていました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 経営陣によって二回目のPX2が潰されたとき、自由と責任はセットであることを説明した上で、その自由(裁量権)を返上しました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7702480.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7702640.html

 

具体的には、それまで行ってきた取り組みを見直し、スタッフに「have to」的な印象を与えるものはすべて中止しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523887.html

 

それと同時に、経営陣には、私に代わってしっかりと人材育成という経営を行うことをお願いしました。トゥールミンロジックでいえば、新たなプランの実行です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/12658417.html

 

しかし、「人間形成」「人材育成」のための新たな取り組みが行われることはありませんでした。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 私には、経営陣自らの「自由とその自由に伴う責任」に対する認識が甘いように思えました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

 

 責任に関してもう一つ。

 

責任を考えるときには、“時間”について意識することも重要です。

コーチング用語に「スリータイムフレーム」という言葉があります。これは思考・判断の基準を過去・現在・未来のどこに置くかということです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

 日本の文化では「過去に決着をつけること」を責任と考えます。切腹がそのいい例です。

 

苫米地理論およびコーチングでは、もちろん、未来での自分の行動を責任と考えます。スリータイムフレームでいうと未来に焦点を当てています。その未来はゴール設定で自ら生みだすものです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 

<仮説04:自由には必ず責任が伴う。プランなきケースが現状肯定になってしまうのと同様に、責任なき自由はゴールの実現を妨げる>

 

<トゥイーキング04:過ぎ去った過去にとらわれず、未来を自由に創造しながら責任を果たす>

 

    自由には責任が伴う

    その自由と責任は未来にあり、自らゴールでうみだすものである

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

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Q-065:認知的不協和の状態にあり頭痛が続いています。適切なアファメーション、ビジュアライゼーションはどうすればよいでしょうか? Vol.2;西洋医学と東洋医学の違い

 

 認知科学者 苫米地英人博士の読者の方から御質問をいただきました。セルフヒーリング&セルフコーチングのコツをイメージしながら、しっかりとまとめてみました。

シリーズ(計八本)でお届けします。

Vol.1 はじめに(目次):

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825164.html

 

 

Vol.2;西洋医学と東洋医学の違い

 

医療の現場にいると日々痛感しますが、日本の医療は西洋哲学がベースになっています。

「存在があり、関係が生まれる」というその根底にある考え方を医療に当てはめると、「病があり、それを診断し治療する」という感じです。

 

「病が“ある”」「体が“ある”」といえるのは、(あたりまえと感じるでしょうが)「物理空間が“ある”」ことが大前提になっています。

 

 ルネ・デカルト(15961650年)に代表される物心二元論(実体二元論)は、「この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体が“ある”」というものです。実体とは「他の何にも依らずそれだけで独立していて存在しうるもの」のことで、アプリオリ(ア・プリオリ)と表現されます。

 

 物理空間に実在する体と、体とは別に存在する心が、「強い相関関係をもつ」というのが心身医学(心療内科)の根底にある考え方です。それを心身相関と表現します。体と心が別々のものであるという大前提のもと、体を対象にしているのが心療内科で、心を対象としているのが精神科です。

 余談ですが、心療内科の講座と診療科を持つ大学は、九州大学、東京大学、東邦大学、関西医科大学、そして私の母校である鹿児島大学の五大学のみです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306438.html

 

 この西洋医学の枠組みでは、病は絶対的存在です。よって、「アプリオリに存在する病を明らかにし(精査、診断)、ふさわしい治療を行う(薬物治療や手術など)」「心理的要因も悪影響を及ぼしているので、心と体を切り離さず総合的な医療を行う」という考え方になります。

 

 御相談の頭痛でいえば、「頭痛の原因を精査し、ふさわしい治療を行う(脳腫瘍や動脈瘤等の器質的疾患が原因であれば手術など。二次性でなければ薬などを吟味)」「(一番多い筋緊張型頭痛はとくに)ストレスが症状悪化の要因となるので、心のケア(カウンセリング等)や生活習慣の見直しも行う」という対応です。

 

 

 「存在があり、関係が生まれる」という西洋哲学に対して、東洋哲学では「関係があり、存在が生まれる」と考えます。それは「原因によって結果が起きる」という釈迦の縁起の思想がベースになっています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 「原因によって結果が起きる」「関係が存在を生みだす」という考え方は、「だから普遍的な実体などなく、物事は常に変わりゆき、永遠に変わらないものなどない」という考え方につながります。さらに突き詰めると、「この世に絶対はない(アプリオリなものはない)」と「この世は心(マインド)がつくっている」というプリンシプルにいきつきます。

 それを大乗仏教では「空(くう)」と表現します。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 釈迦哲学をベースとした東洋哲学の枠組みでは、病は「あるといえばあるし、ないといえばないもの」「あるともいえないし、ないともいえないもの」です。相対的存在であるともいえます。

 

例えば、西洋的な価値観(ブリーフシステム)では、心不全や腎不全は年齢に関わらず病と考えます。年齢を考慮して無理に治療を行わない場合、病の存在を前提とした上での「様子をみましょう」です。それは「諦める」に近い感覚であり、医療従事者の本音でいうと「敗北」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

それに対して、東洋的な考え方では、心不全や腎不全を「高齢者の自然な状態」と捉えることを否定しません。無理に治療を行わない場合、(病を包摂する)死に向かう自然な状態であることを前提とした上での「様子をみましょう」です。それは「受容する」に近い感覚であり、その時医療従事者が意識するのは「人生の最終段階(End of life stage)の支援」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293317.html

 

もちろん、年齢で簡単に分別できるわけではありません。その人、その時の状況によって、病であったり、病でなかったりするといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7859896.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045827.html

 

御相談の頭痛でいえば、「頭痛は絶対的に存在するものではない(アプリオリではない)」「頭痛は心(マインド)がつくっている」とまずは考えます。よって、「リラックスして、自身の心を見直そう(止観)」という対応からはじめます。その上での医療です。

 

 「認知的不協和」を「頭痛の一因(主因)」と捉えている今回の御相談者は、(さすが苫米地博士の読者だけあり)止観がしっかりできています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

それは苫米地式コーチ/ヒーラー兼医師の私にとって、とてもうれしいことです。「すべての人が四苦(生老病死)を縁起的視点で解決することができ、苦しみから解放されている」というのが私のビジョンのひとつだからです。ビジョンとは、ゴールが叶ったときに自分が見ている世界(イメージ)のことです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 しかしながら、世間はいまだに西洋的なパラダイムに囚われたままです。20世紀の終わりに不完全性が証明されたという事実がスコトーマに隠れたままで、コンフォートゾーンを変えることができていません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

不完全性定理や不確定性原理が証明された現代においては、「神が創造した完全なる宇宙では始まりにすべてが決まっている。そして、その初期値と連続する因果の当然の帰結として現在の個々の思考や行動がある」という西洋哲学の因果律は完全に崩壊しました。「病が“ある”」「体が“ある”」ことを真とする「物理空間が“ある”」という大前提が崩れたのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654230.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4654316.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831442.html

 

 

 「すべては決定的ではない」という事実は、西洋哲学から東洋哲学へのパラダイムの転換を求めています。もちろん医療においても。

 

 

 じつは、そのパラダイムシフトの鍵となるものは、医療現場にすでに広がりつつあります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8292888.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293064.html

 

そして、それはこれから世界が迎えることになる「超高齢化社会」における医療の重要なポイントでもあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8748974.html

 

その“鍵”とは「抽象度」。

 

次回(Q-066)説明いたします。

 

 (Q-066につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 

詳しくは後述しますが、苫米地式コーチング(&ヒーリング)は、西洋哲学と東洋哲学を包摂した立場をとります。

 

その理論的バックボーンである「超情報場仮説(理論)」では、「情報が物理空間(情報空間の底面)で実体化している」とし、物理的身体を情報の写像とみます。病は相対的な存在であり、物理空間上での自己表現です(もちろん健康も自己表現です)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165789.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165823.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5165888.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306380.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306438.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306445.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5445932.html

 

違う言い方をすると「病とは情報空間のバグ」といえ、仮観的には「何らかの機能・役割」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

その「バグ」や「機能・役割」といったものを、より高次の抽象度次元(情報場)で書き換えていくのが「苫米地式」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542426.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6681143.html

 

 


F-062:バイオパワー(生権力)-中編-

 

 シリーズ編「S-01-19:コーチング的視点で考えるバイオパワーの問題」に関連してたくさんの御意見をいただきました。ありがとうございます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13076797.html

 

 フーコーの「監獄の誕生」を片手に、あらためてバイオパワーについて考えてみました。三回に分けてまとめます。

 前編:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13825013.html

 

 

「人々の生活の中で、その営みを行うための日常的な関係の中から自然に生みだされる権力」を「生権力(せいけんりょく)」、英語では「Bio-power」といいます。

 フランスの哲学者ミシェル・フーコー(19261984年)は、監獄を見張る一望監視システム(パノプティコン)と同様に、権力により社会が監視され、家畜のように従順な存在であることを強要されていると訴えました。

 

フーコーが指摘した「バイオパワー(生権力)」には、2つのパターンがあります。

ひとつは個々人に働きかけて、規律正しく従順なものへ調教しようとするパターンです。学校や軍隊において働くこの種の権力は「規律権力」とも呼ばれます。

もうひとつは、統計的な調査等々にもとづいて住民の全体に働きかけ、健康や人口を全体として管理しようとするパターンです。行政や企業、病院においてこの種の権力が機能しています。

 

じつは、医療・福祉の世界では、想像以上に「バイオパワー(生権力)」が働いています。

コーチ兼医師としての私が医療現場で目の当たりにするのは、「医療者はバイオパワー(生権力)をうみだす存在に容易になってしまう」という事実です。

 

 

…10年近く前の話になりますが、鹿児島県阿久根市の市長(当時)が「高度医療が障がい者を生き残らせている」と発言し問題になったことがありました。その発言の是非には触れませんが、当時の私は「バイオパワー(生権力)の存在を鋭く指摘している」と感じました。

 

「主権力」が生殺与奪の権限を握った「死なせる権力」であるならば、「バイオパワー(生権力)」は生命を最大化する権限を握った「生きさせる権力」といえるからです。

 

高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度デザインというのは「主権力」から「バイオパワー(生権力)」への移行と捉えられています。人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるといったメカニズムがものすごく発達していく それが「バイオパワー(生権力)」の時代です。

 

そんな「バイオパワー(生権力)」の時代には「死」がタブーとなります。そのため、積極的に「死」を選択(あるいは受容)することに関して、強い圧力がかかります。

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「蘇生は絶対にしないでくれ。自然に死なせてくれ」と強くお願いされていた患者さんに対して、私は蘇生処置を行ってしまったことがあります。ファイト・オア・フライトに陥り、「死」の圧力に負けてしまったのです。

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そのケースでは、御家族にはむしろ感謝されました。

様々な見かた・解釈があり、100%正しいとも正しくないともいえないことは承知しています。ゲーデルの不完全性定理が働くことも十分理解しています。

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しかし、死に逝く者の意思に反したこと、つまり自由と尊厳を侵害したことは紛れもない事実です。しかもそれは情動の発火によりIQが下がった結果です。

 

そのような貴重な経験を重ねるうちに、「医療者は『死んでほしくない』という自身の情動で目の前の命に向き合ってはならない」と考えるようになりました。現場ではよく「(患者さんを)自分の家族のように思いなさい」という言葉を聞きますが、それではいけないのです。「バイオパワー(生権力)」が生まれやすくなってしまうから。
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もちろん、「積極的に死に向かわせる」ことは論外です。それは、近代以前の「主権力」に逆戻りする“人類の退化”といえます。

 

では、四苦の現場で情動に流されずにベストを尽くすにはどうすればよいのでしょうか?

 

 

私は、「個々人が『生と死』に関して自身の哲学を築きあげること」だと考えています。その実現のために、苫米地理論の理解とコーチングの実践がとても役にたちます。

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なぜなら、スコトーマを外し「生と死の間にあるもの」を見つけることができるからです。その結果、自らのトータルペイン(Total Pain)を克服することができます。

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話を「バイオパワー(生権力)」に戻します。

フーコーの権力論は、近代になって個々人の自由が広く認められるようになったという一般的なイメージを覆し、近代を「個々人を巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代」として捉えるものでした。

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繰り返しますが、「直接的ではないが、間接的に強く束縛しようとする目に見えない力」という「バイオパワー(生権力)」は、「『have to』を仕掛ける力」です。それは人から自由を奪い取り、エネルギーと創造性を封印してしまいます。

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その「バイオパワー(生権力)」はすでに社会の隅々にまで浸透し、無意識のレベルで日常的な服従をすべての人々に強制しています。社会全体がどんどんドリームキラー化しています。

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次回、具体的に検証します。

 

 (F-063につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

-追記-

 「死なせる権力」である「主権力」と同様に、「生きさせる権力」といえる「バイオパワー(生権力)」にも特別な注意が必要だというのが私の意見です。ですが、「死なせるのがよくない」のと同じように「生きさせるのはよくない」と主張したいのではありません。

 むしろ、お金のモノサシや人権軽視が絡んだ「生きさせるのはよくない」という風潮は危険だと考えます。

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 もっというと、生や死に関して議論を行うことそのものがよくないと思っています。鹿児島の言葉でいうと「議を言な(ぎをゆな)」!

 

 議論とは「論題を自らの情動と切り離し、相対化して、物事の裏表両方を見る視点で、論理的に行うもの」ですが、「人の命は相対化できない(してはならない)」からです。

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 だからこそ、「“いのちの現場”には哲学が求められている」といえます。

哲学は論理空間をはるかに超越した次元(抽象度)に存在するはずだから。

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http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

関連することを、「The Power of MindⅠ」第六章の「仮説13」で取り上げます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124527.html

 

 

監獄の誕生(ミシェル・フーコー)



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