苫米地式コーチング認定コーチ CoacH T <タケハラクニオ> ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学び九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

2018/08

Q-047:霧島市(鹿児島)教育講演会<180628> vol.1

 

 2018628日(木)、霧島市(鹿児島県)で開催された姶良地区学校保健会において、教育に関する講演を行わせていただきました(65分)。

 

 当日の講演内容を簡単に御紹介すると、

 

    時間の流れ(時間は未来から過去へと流れる)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

    Quiz:「〇の数は?」「ブロックに埋め込まれた意味は?」

 

    教育現場が抱える様々な問題・課題(若者の自殺・自殺念慮とネット依存)

  http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045200.html

 

    小児精神科からの衝撃のレポート(マルトリートメント)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10114934.html

 

    教育現場の福音となるものコーチング用語解説(スコトーマ、ゴール、エフィカシ、コンフォートゾーン)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

    教育の目的とコーチングの関係

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

    真の教育の先にあるもの(平成の意味、ルー・タイス氏の思い)

 

といった内容です。  

 

 参加者は学校長などベテランの教育関係者が中心でした。

65分の持ち時間のうち60分を講演にあて、残り5分を質疑応答の時間とさせていただきましたが、時間をかなりオーバーしてしまうほどたくさんの御質問をいただきました。講演終了後にも質問をいただきました。ありがとうございます。

 

質問にお答えしながら、私は、現場の先生方の現状に対する危機感とコーチングに対する期待をひしひしと感じました。

 

コーチングおよびその根底にある人間の認知に関する知識とその運用のスキルは、これからますます教育現場においての希望となるはずです。もちろん、学校に限らず、家庭や職場、そして医療・介護現場においても。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166400.html

 

 九州で活動する苫米地式認定コーチとして、九州中の教育現場にコーチングがどんどん広がっている未来をイメージしながらお話させていただきました。

 これからそのイメージを実現していきたいと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 次回(Q-048)から、いただいた御意見・御質問に対して回答いたします。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

180628 学校保健会講演用1枚目




F-044:笑顔のままお亡くなりになった患者さんから学んだこと 前編:布施

 

 この世は無常です。

 

 生じたものには、必ず滅するときがやってきます。

 生あるものには、必ず死が訪れます。

 

 その死までの道程に深く関わる医療・介護現場では、辛いことですが、老病死がとても身近に感じられます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045953.html

 

 医師としての本音でいえば患者さんにはいつまでも元気でいてもらいたいのですが、自然な(そして楽な)最期を迎えられるようにお手伝いすることも、私たちの大切な機能・役割だと思っています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 

先日、穏やかな看取りに立ち会いました。

 

患者さんは70代の男性でした。詳しくは書けませんが、アルコール依存が原因で家族とは疎遠だったようです。

 

その患者さんは、肺炎を繰り返すたびに老衰が進行していきました。血液中の酸素量を示す酸素飽和度(SpO2)の低下があり、酸素吸入を必要とする時間がどんどん増えていきました。

 

でも、そんな状況にもかかわらず、私が診察に伺ったときはいつも、とびきりの笑顔で迎えてくださいました。

 

死の2週間前からは、とてもとても辛そうな呼吸をされていました。

しかし、スタッフには必ず笑顔で応えてくださいました。死のほんの直前まで。

 

そんなあたたかい看取りに携わりながら学び考えたことを、3回に分けてまとめます。初回のテーマは「布施」です。

 

 

 「布施(ふせ)」とは、「分け与えること」です。

 

「お布施」と聞くと金品を提供することを思い浮かべる方が多いのではないかと思いますが、それは数ある布施のひとつで財施(ざいせ)といいます。他にも法施(ほっせ:教えること)、無畏施(むいせ:恐怖心を取り除くこと)などがあり、その三つのことを三施(さんせ)と呼びます。

 

この布施とは、迷いの世界から悟りの世界へ至るための菩薩の修行のひとつとされています。その修行を波羅蜜(はらみつ)といい、大乗仏教では六つの実践を六波羅蜜(ろくはらみつ)としてまとめています。

 

六波羅蜜とは、布施波羅蜜(ふせはらみつ)に加え、

 

持戒波羅蜜(じかいはらみつ:戒を守ること=自分をコントロールすること)、

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ:怒りや恨みの心を抱かず寛容であること=すべてが空<くう>であることを理解し、情動をコントロールすること)、

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

精進波羅蜜(しょうじんはらみつ:ゴールに向かってどんどん進んでいくこと)、

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ:瞑想すること=さらに抽象度の高い思考を行いながら、縁起空間をしっかりと観ること)、

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

智慧波羅蜜または般若波羅蜜(ちえはらみつ、はんにゃはらみつ:諸法の究極的な実相を見極め、真理を悟ること=時空を超え、中観宇宙を自由自在にうみだすこと)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

です。  

 

 

 話を布施に戻すと、釈迦は人に与える金品や知識がないという人のために「無財の七施」を説かれています(雑宝蔵経、ぞうほうぞうきょう)。その七施とは下記の七つの行為です。

 

 眼施(げんせ、がんせ:やさしいまなざし)

 和顔施(わがんせ:和やかな明るい顔)

 言辞施(ごんじせ:やさしい言葉)

 身施(しんせ:行動での奉仕)

 心施(しんせ:慈悲心での気配り)

 牀座施(しょうざせ:たとえば席や場所を譲る行為)

 房舎施(ぼうじゃせ:たとえば自身の家を休憩・宿泊のために提供する行為)

 

 事情により、私は子どもの頃より真言宗のお寺に通っていました。そこで法主の池口恵観先生から多くのことを学びました。私が医師を志すようになったのも恵観先生との御縁からです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6854577.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7031387.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 当時子どもだった私には、提供する金品(財施)や知識(法施)はありませんでした。そのため自然に「無財の七施」に取り組むようになりました。恵観先生から「和顔愛語」の大切さを教えていただいたこともあり、七施は私のブリーフシステムとなりました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

 今回取り上げている患者さんの姿は、まさに眼施であり、和顔施でした。看護・介護する者に、とてもあたたかい無言のメッセージとして伝わっていました。

 

残念ながら、身体的にはとても苦しいはずなのにどうしてあのような素敵な笑顔が続けられたのかを伺うことはできませんでした。しかし、たとえ働けなくなっても、たとえ動くことさえできなくなっても、布施という機能は最後まで発揮することができるという確信を得ることができました。患者さんにはとても感謝しております。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 ところで、最新の医学研究を学ぶうちに、「無財の七施」には人間社会にとってとても重要な意味があることを実感するようになりました。

 これから2回にわたって、とくに眼施や和顔施に隠されている科学的事実について考察していきます。次回(F-045)のテーマは「ブラインドサイト」です。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-28自分を縛るたったひとつのルール ―前編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

自分を縛るたったひとつのルール ―前編-

 

自由を履き違えないための大切なルールがあります。

 

抽象度の低い人は奴隷のままでいた方が社会のためになります。低い抽象度の人が自由を履き違えると、レッドソックスの三選手のようにまわりに悪影響を与えてしまうからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

しかし、じつは、自由を履き違えることの恐ろしさは、決して個人やチームレベルでの話では終わりません。社会全体を暗く、誤った方向に導いてしまう危険があります。

 

ユダヤ系の政治哲学者にして思想史家であるアイザイア・バーリン(19091997年)は、「二つの自由概念(Two Concepts of Liberty1958年)」において、他者から拘束を受けない「消極的自由」と、自分自身に対して自己実現を課す「積極的自由」とを区別しました。

 

エーリヒ・フロム(19001980年)が消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由についても、バーリンは「他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義につながる」と警告しました。

 

「消極的自由」とは「フリーダム」「リバティ」の和訳として日本語に置き換えられた「自由」のことです。そして、仏教に由来する日本語本来の「自由」が「積極的自由」にあたるといえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

バーリンが生きたのは二つの世界大戦が起こった時代です。その悲惨な経験の中で、自由を求めることが、一歩間違えると、戦争につながることに気がついたのです。

 

一方で自由を求めながら、一方で「戦争と差別のない世界の実現」を目指す未来において、このことは決して忘れてはならない大切な“戒め”です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10987549.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-27自由を求める人に必要な「自己責任」の意味

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

自由を求める人に必要な「自己責任」の意味

 

自由を追求する人は、「抽象度を上げる」必要があります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

本質的には同じことなのですが、もうひとつ必要なことがあります。

それは「自ら戒める」ことです。

 

PM-05-19の人形の例えでいうと、いつまでもポーズを決めることができる人形は、潜在的にはかなり自由に関節は動くのですが、あえて制限を加えることで思い通りの姿勢を保つことが可能となっています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400928.html

 

この「制限」を自分の意志で行うことが、“自ら戒める”ということです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

西洋的な価値観には、神との契約の概念がベースにあります。

「戒」は神との契約上守らなければならないことで、もし破れば神に罰せられる(あるいは救済されない)と考えます。

 

それに対して、本来の仏教では「戒」は自分自身で自分に課すものです。

自分が心から望むゴールの達成のために必要な「戒」を、自分自身の意志で設定し、自分の意志で守っていくのです。もし破った場合に罰するのも自分自身だけです。

それが「自己責任」ということです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

動物の調教では“アメとムチ”が使われます。望ましい行動に対してはエサを与え、望ましくない行動には痛みを与えることで、行動を矯正していきます。

 

前時代的組織においては、人間に対しても、この報酬と懲罰による矯正が行われています。

これを他者にされてしまうことを許せば、人は他者の支配下に入ってしまいます。「have to」を仕掛けられ潜在的能力を十分に発揮することができなくなった人は、奴隷として生き続けることになります。

 

自分で、自分自身をゴールの実現に向かって矯正するのであれば、それは「自戒」であり「自律」です。釈迦が最後に説いたとされる「自帰依自灯明」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

自戒や自律の場合、懲罰はもはや必要ありません。報酬だけでコントロールできます。

認知科学では、プライミングといわれる報酬系のメカニズムがすでに解明されています。そして、ドーパミンを自分でコントロールすることで強力にモチベーションを上げていく方法もコーチングとして確立しています。
 (注:「モチベーションを上げる」という発想には注意が必要です)

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

私たちはすでに他人に支配されることなく、思いどおりに自分自身を導く生き方ができます。真の自由を手に入れることができるのです。

そんな生き方を広げ、伝えていくことが真の教育です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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Q-046:「明確にリアルに目標がイメージできた時点でほぼゴールに近づいた」とは具体的にどういうことでしょうか? Vol.5finale

 

Q:現在自分は目標がありますが、ただ漠然としたイメージの中で目の前の目標に対して取り組んでいます。よく明確にリアルに目標がイメージできた時点でほぼゴールに近づいたと聞きますが、具体的にどういうことなのか教えていただければと思います

 

A:御質問に対する私の回答を、

 

1)認知科学以降に変わった“リアル”の定義、

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400871.html

2)ゴールと現実の関係

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10542791.html

3)よくあるゴール設定の間違い

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10691658.html

4)ゴール達成前にすべきこと

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10829222.html

5)“自我”の考察により明らかになる“リアル”の儚さ

に分けて回答いたします。  

 

「ただ漠然としたイメージの中で目の前の目標に取り組むこと」の功罪について理解するための、そして、これからの自分の生き方を“自由意志”で選択するための、大切な知識となるはずです。

 リラックスしながらお読みください。

 

 

5) “自我”の考察により明らかになる“リアル”の儚さ

 

 前回まではコーチングの視点で回答いたしました。

最後は仏説的に解説いたします。

 

前回記したとおり、ゴールは更新し続けるものです。

ゴールを達成しそうになったら、新たなゴールを設定する必要があります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10829222.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

ということは、私たちはいつまでたってもゴールにはたどり着けないことになります。

 

儚く感じるかもしれませんが、それが真実です。

 

その(いつまで経っても達成することのない)ゴールは記憶により成り立っています。

その記憶を再合成するものは“自我”です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

“自我”は「空(くう)」ですから、ゴールも「空」です。

「あるといえばあるし、ないといえばないもの」「あるともいえないし、ないともいえないもの」です。

つまり、実体がないものです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 

ゴールは永遠に達成することはできず、そもそも、そのゴール自体が実体のないものである

 

 

それが人生の本当の姿です。

 

儚く感じませんか?

 

しかし、ゴールも自我も「空」だからこそ、人は自由に生きることができます

苦しいこと、嫌なことがあっても、すべては「空」だから、なんとでもできます

自分自身も「空」なのだから、いつでも好きな自分になることができます

 

ゴールを更新する先に儚さがありますが、そのもっと先には真の自由があります。

その境地にたどり着いたとき、人は無限の可能性を発揮することができるはずです。

 

以上、長くなりましたが、御質問に対する私の回答です。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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F-043:「感情労働」という問題とその解決のイメージ

 

ある日の昼下がり、妻と食事にでかけたときの出来事です。

 

料理の注文後しばらくして、店員さんが謝罪をしにやってきました。注文した品の一品が手違いで提供できないらしいのです。

 

「では、次に来た時に注文しますね」と笑顔で取り下げましたが、その時と料理を持ってきてくれた時、そして帰り際の計三回も謝罪をされました。「どうもすいませんでした」と深く頭を下げながら。

 

私には過剰な謝罪のように感じられました。そして、店員さんの心が無言で訴える「辛い」という叫びを聞いた気がしました。

 

have to」が店員さんの無意識に入り込んでいる

 

そう思った瞬間、「感情労働」という問題とその解決のイメージが浮かびました。

 

 

感情労働(Emotional Labor)とは、アメリカ合衆国の社会学者 アーリー・ラッセル・ホックシールド氏が提唱した働き方の概念です。「肉体労働」「頭脳労働」に続く第3の労働形態とされ、「感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などを不可欠の職務要素とする労働」と定義されています(コトバンク)。

具体的には、旅客機の客室乗務員などの接客業、営業職、医療・介護職、教職などとされています。しかし、実質的にはすべての業種に当てはまるようです。

 

感情の鈍麻、緊張、忍耐などが「不可欠の職務要素」となってしまうのは、「相手(顧客)の精神を特別な状態に導くために自分の感情を誘発、または抑圧することが職務だから」とされています。

もっとはっきりと表現すれば、「顧客に対して自発的な喜びや親愛、誠実さ、責任感などのイメージを与えるように『心の商品化』が要求される」(Wikipedia)です。

 

つまり、「会社からの管理・指導のうえで、本来の感情を押し殺して業務を遂行することが求められる『精神と感情の協調が必要な労働』」が“感情労働”といえそうです。

 

Wikipediaには「相手に尊厳の無償の明け渡しを半ば強制される健全とは言いがたい精神的な主従関係や軽度の隷属関係の強要である」とあり、さらに「一般的な頭脳労働と比べ、人間の感情に労働の負荷が大きく作用し、労働が終了した後も達成感や充足感などが得られず、ほぼ連日、精神的な負担、重圧、ストレスを負わなければならないという点に感情労働の特徴がある」と記載されています。

その当然の結果として、感情労働による疲労や心の傷は回復しにくく、メンタルヘルスの不調を引き起こすことも少なくないようです。

 

疲労というと筋肉など体のダメージが原因と考える方が多いと思いますが、最近の研究により、身体の疲れはストレスによる脳内の自律神経中枢のダメージが原因であることがわかっています。

つまり、抽象度の高い情報空間に原因があり、それが疲労や病気となって表れているのです。当然、感情労働を継続する限り、ストレス状態は継続し、不調が続くことになります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5306380.html

 

 モチベーションが「have to」の状態は、労働者の健康面だけでなく、経営的視点から考えても決していいものではありません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 前頭前野に対して扁桃体が優位になってしまうことで、本来の能力を発揮することができなくなり、より情動的になってしまいます。働く仲間の多くがそんな状態では、職場はますますギスギスしていくことでしょう。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9815429.html

 

 ギスギスしていった結果として人間関係がさらに悪化してしまうと、ますますIQが下がり、とんでもない言い訳や不適切な行動が蔓延するようになってしまいます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9188068.html

 

働く者にとっても、経営者にとっても、そしてサービスを受ける顧客にとっても、「lose-lose」の最悪の縁起であるというのが感情労働の実態です。

米ペンシルバニア州立大学の心理学者 アリシア・グランデ―氏は、「本来の感情を長期間にわたって抑える感情労働の強制は、労働者の精神や肉体に甚大な悪影響を及ぼす。企業はそうした人々をもっとサポートすべきであり、感情労働そのものが不当で禁止されるべきものである」と発言しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

それなのになぜ、「本来の感情を押し殺して業務を遂行すること」がまかりとおるのでしょうか?

 

そんなことを思いながら調べていると、あるサイトでこんな文章を見つけました。

 

「体を使った作業を賃金に変える『肉体労働』、頭を使って創出したアイデアなどを賃金に変える『頭脳労働』に対して、『感情労働』とはその名のとおり、感情を抑えることで賃金を得ます。このように、対人の仕事につく多くが、決められた感情の管理を求められ、規範的な感情を商品価値として提供しているのです」

 

この文章には致命的な誤りが含まれています。人から幸せを奪う危険な思想がスコトーマに隠れてしまっています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

その誤った危険な思想とは、「お金のモノサシ」です。
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8582928.html

 

「お金のモノサシ」を正しくコントロールすることができなければ、たとえ想像できないほどの大金を手に入れたとしても、「人生の満足度(life evaluation)」や「感情面での幸福度(emotional well-being)」は満たされません。それは米パデュー大学心理学部の研究により明らかにされています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8430748.html

 

 幸福度(well-being)というのは、WHOWorld Health Organization:世界保健機関)の健康の定義中にもでてくる言葉です。19467月に署名されたWHO憲章において、健康は次のように定義されています。
 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7859675.html
 

Health is a state of complete physical, mental, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

 健康とは、身体的に、精神的に、そして社会的に、完全に幸福な状態(満たされた状態)であることであり、単に病気がないとか、弱っていないということではない

 

 「お金のモノサシ」を抱えたまま感情労働を続ける限り、つまり、「have to」で生きる限り、健康からはますます遠ざかり、どんどん不幸になっていきます。

 繰り返しになりますが、心の問題(バグ)はやがて物理的な身体にもあらわれてきます。心の傷が脳の傷となってしまうことは、最新の医学研究がどんどん明らかにしている事実です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10114934.html

 

 

 問題の本質は、「感情労働」という概念を生みだし、いまだに存在し続けることを許容する社会のシステムにあります。

 そして、そのシステムは、人間の認識により生みだされ、現状維持を是とするマインドのメカニズムによりコンフォートゾーンとして強力に保たれています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 

 その問題を解決するイメージとは、コーチングが世界中に広がり、あたりまえとなった世界です。みんなが自身のゴールを自分自身で決めることができ、お互いのゴールを尊重できる未来です。

 

 そんな世界(未来)は、今この瞬間の、一人ひとりのゴール設定からはじまります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

 

Goal comes firstreality is second.

By Lou Tice

 

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記1

 今回はフリーテーマの記事を「感情労働」をテーマにつないでみました。私なりの「Connecting the dots」です。ぜひ、リンクを張っている記事も読みなおしてみてください。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7383761.html

 

より大きなゲシュタルトができることで、新たな“化学反応”が起こるかもしれません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6193912.html

 

-追記2

WHOの健康の定義は、1998年に以下のような新しい提案がなされ、WHO執行理事会で採択されています(ただし、その後のWHO総会では採択が見送られているそうです)。

 

 Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

 

 いずれにせよ、WHOの健康の定義には無理があります。

 ぜひ、自分自身の“健康”について定義してください。それは健康というカテゴリーのゴール設定を行うことにもなります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124524.html

 

 

WHO 健康の定義



PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-26監督がチームを去ったことは正しい選択だったのか? -後編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

監督がチームを去ったことは正しい選択だったのか? -後編-

 

能力を最大限に発揮するためには、モチベーションのコントロールが重要です。

(正確には、「ゴール設定の結果としてモチベーションがコントロールされている」です)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

want to(~したい)」で働く人は自分の能力を発揮し、「have to(~ねばならない)」で働く人は自身の能力を限定してしまいます。

チームは人間の集まりですので、チームの潜在能力を発揮するかどうかもまったく同じで、チーム内のムードが「want toか? have toか?」に左右されます。

 

もちろんリーダーには、チームのモチベーションをコントロールする責任があります。しかし、強制的にコントロールするのでは「have to」を仕掛けることになります。

 

リーダーがやるべきことは、モチベーションをコントロールする必要性を理解させ、その方法を教え、自ら行ってみせて、そして「私たちはできる」という確信をもって見守ることです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

いつまでたっても「have to」を「want to」に変えることができず、チームに悪影響を与え続ける人たちは、たとえどんなに“優秀”でもチームから除外するべきです。

中国の故事にも「政をなすの要はただ人を得るに在り」(貞観政要)や「一利を興すは一害を除くに若かず」(十八史略)などがあり、「have to(で生きる人)」を排除する重要性に言及しています。

 

メジャーリーグでは人事権はGMにあり、監督にはありません。フランコナ監督は、説明しても理解できない抽象度の低い選手達は追い出したかったはずです。

 

「現状のままでは雰囲気が悪い。ダメな奴らを追い出したいがその権限はない。かといって、監督の権力で強制的に更生させたとしても、結局はいつかチームの勢いを奪ってしまう」

 

そんなジレンマの中、自分のモチベーションも「have to」になってしまい、能力が発揮できなくなってしまうことを予見したのだと思います。関わる全員にとって「lose-lose」となってしまう未来を見てしまったのだと思います。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542317.html

 

すべては縁により起こっており、双方向の関係性です。そして、すべては不完全であり、絶対はあり得ません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

すべては空(くう)であり、仮(け)として存在しています。

仮として存在することができるのは、果たすべき役割・機能があるからです。その役割を果たせないならば、機能を発揮することができないのならば、空なるがゆえに存在する理由がありません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

だから私は、フランコナ監督の退任は正しいと思っています。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 


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