苫米地式コーチング認定コーチ CoacH T <タケハラクニオ> ブログ

認知科学者 苫米地英人博士に学び九州で活動するコーチ・ヒーラー・医師 CoacH T(タケハラクニオ)ブログ

2018/07

F-040:「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ ♪」中編

 

 2018516日に、昭和を代表する歌手 西城秀樹さんが亡くなられました。63歳という若さでした。

 

 「ヒデキ」と聞くと、私が思いだすのは「YOUNG MAN」です。さわやかに歌いながら踊る姿をよくまねたものです。

 

 当時の記憶を思いだしながら、「YOUNG MAN」の歌詞を読みあげてみました。すると、サビの部分に少し気になるところがありました。

 

 

 素晴らしい YMCA YMCA

 憂鬱など吹き飛ばして 君も元気だせよ

 素晴らしい YMCA YMCA 

 若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ

 

 

「今の若者たちは『なんでもできる』という言葉を素直に受け入れるのだろうか?」という視点で、前回(F-038)の記事を書きました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10256356.html

 

 

 歌詞をイメージすることは、コーチングで重要視するセルフトークの実践といえます。セルフトークにより、ゴール側のコンフォートゾーンやイメージ(ビジョン)を強化することができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

よって、どのような歌を好むかは、人生を創造する上でとても重要な要素となります。

 ちなみに、この件(くだり)を書いている今、私の頭の中に流れている歌は「アンパンマンのマーチ」です(笑)。作者のやなせたかしさんの思いがあふれるすばらしい歌詞について、いつか取り上げたいと思います。

 

「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ」をセルフトークとして考えると、少し注意が必要になります。

 

「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ」という言葉の裏に、「老いていくとやりたいことはできなくなっていく」というエフィカシーを下げるネガティブなメッセージが潜んでいるからです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

 

 やりたいことがなんでもできるのは、本当に“若いうち”だけなのでしょうか?

 

 

私の答えは、半分はYes、半分はNoです。

 

今回はYesの理由について、医療・介護現場が抱える課題を紹介しながら考察します。

課題とは、「転倒・転落予防のために高齢者に何もさせない問題」です。

 

 

「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ ♪」の反対は、「老いていくとやりたくても 徐々にできなくなるさ ♪」といった感じでしょうか。

 

 人間の物理空間でのピークは20代前半です。

 自覚はしていなくても、20代後半から静かに老いは進行していきます。「老眼」はその代表で、社会的にはバリバリ活躍している40代にして「老」の烙印が押されてしまいます。

 (細かいことをいうと、もっともっと早い段階から老いは始まっています)

 

 では、ここで問題です。直感で答えてください。

 

 

 Q20歳の時点での片足立ちの能力を100とした場合、60歳では? 80歳では?

 

 

 皆さん、どのくらいだと思いますか?

 答えは過去のブログ記事に記してあります。ぜひ確認してください。きっとビックリされますよ。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8045953.html

 

 ふだんは老いの変化はスコトーマに隠れ、なかなか認識できません。

しかし、気がつかないうちに、私たちの身体機能は確実に低下していきます。歩きなれたはずの道で転ぶようになり、家の中での動作にも支障がでてくるようになります。

いわゆるADLActivities of Daily Living、日常生活動作)が徐々に低下していくのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 さらに年をとっていくと、老いの変化に次々と病が重なるようになります。例えば、徐々に足の筋力が衰えていたところに骨折や肺炎がおこり、“寝たきり”の状態やそれに近い状態になってしまうという感じです。

 もちろんそうならないようにリハビリなどの医療があるのですが、どんなに頑張ったとしても、残念ながら、老いは確実に進行していきます。年々病にかかりやすく(治りにくく)なっていきます。

 

 病院や介護施設には、生活動作に介助を必要とする方々がたくさんいらっしゃいます。しっかりされているようでも、ちょっとしたことで転倒してしまったり、ベッドから転落してしまいます。

 

 転倒・転落の防止を目的とするならば、何もせず(させず)じっとしていてもらうことが一番です。しかし、それでは下肢筋力などの身体機能がますます低下してしまいますし、精神機能にも悪影響が生じます(認知機能低下など)。

 その一方で、自立を促すほど転倒・転落の危険は増します。太ももの付け根を骨折してしまえば(大腿骨頸部骨折)、車椅子生活となってしまう可能性がグンと高まります。

 

 転倒は怖いが、動かないとますます転倒しやすくなる

転倒予防にどんなに取り組んでも、老いは確実に進行していく

何もしない(させない)方がよいかもしれないが、何もしないとますます衰えていく

 

 これが医療・介護現場が抱えるジレンマです。

 

 残念ですが、年をとるごとに確実に身体機能は衰えていきます。

よって、「老いていくとやりたくても 徐々にできなくなるさ ♪」と現実をしっかりと受け入れつつ、「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ 」と次世代の背中をやさしく押してあげられるように生きることが望ましいのではないでしょうか。

 

 私たちが存在する(と感じる)物理空間には物理的制約が働いています。1日生きると、1日分残された生命時間(寿命)は短くなり、その分身体が死に向かって老いていきます。

 

 若いうちは無限にあるように感じられる時間がじつは有限であること、そしてその時間制約の中で体力や身体機能は衰える一方であることを知ったとき、「若いうちはやりたいこと なんでもできるのさ ♪」という歌詞は、「若くてもやりたいこと以外 やってる場合じゃないのさ ♪」という叫びに変わります。

 

 そんなメッセージを、コーチングや苫米地理論とともに、若者に伝え続けたいと思っています。

 

 

 次回(F-042)は、このような生き方を“超越”します。お楽しみに。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 「若くてもやりたいこと以外 やってる場合じゃないのさ ♪」をNHK的に表現すると、「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」になります(笑)。

 


I-014:「実際に起きたこと」の場を共有して ~コレクティブエフィカシーの体感~

 

 以前お知らせしたとおり、2018625日(月)に鹿児島市で苫米地式認定マスターコーチ 青山龍さんのコーチングセミナーが開催されました。

 

 マスターコーチとは、苫米地式認定コーチを育成するという役割を持つ“コーチのためのコーチ”です。

日本に(世界に)数名しか存在しないそのマスターコーチが、御多忙の中鹿児島まで来てくださいました。2016年から3年連続で、PX2も含めると通算6回目となります(私が知る限り)。

http://bwf.or.jp/what_is_px2

 

 以前、コーチ仲間に、「青山コーチはなぜ鹿児島によく行かれるのですか?」と真剣に質問されたことがあります。

 

もちろん、私にはその理由はわかりません。

ただ、噴煙をあげる桜島の巨大なエネルギー(物理場のエネルギー)や明治維新の原動力となったという歴史的事実(情報場のエネルギー)が、青山コーチを引き寄せているのだろうと思っていました。

 

コーチとしてのエフィカシーで付け加えるなら、「本物のコーチングを九州に届けている」「コーチングを九州中に広げている」という地元のコーチ達の熱い思いも縁起として影響しているはずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 

 今回のセミナー前後の一週間はずっと雨でしたが、その日だけは晴れ渡りました。

 久々の青空の下、仲間のコーチと青山コーチをお迎えにあがり、鹿児島市のとある場所にお連れしました。

 

 桜島を真正面に見ながら談笑している時、青山コーチの気(プラーナ)が虹色に輝いたように感じました。

 

 その時の様子を、青山コーチ御自身がブログに記載されています。タイトルは「実際に起きたこと」です。

 http://blog.livedoor.jp/r_aoyama/archives/52211789.html

 

 

 高いエフィカシーが相乗効果で化学反応を起こして一気にエフィカシーが上昇する体感がある

 

 

 私が、セミナーに参加することなど、場を共有することを強くお勧めしているのは、“化学反応”が起こりやすくなるからです。

 

 もちろん重要なのは情報場ですが、その情報場へアクセスするのに物理空間を共有することは大変役立ちます。情報が多く(抽象度が低く)具体的で、臨場感を上げやすいからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

 青山コーチは、きっとまた鹿児島に来てくださいます。

 

 「もっとコーチングを学び実践したい」という思い

「悩み苦しむ人たちにコーチングをしっかりと届けたい」という願い

そして、「コーチングで世界から戦争と差別をなくしている」という光(WorldPeaceCoaching

 

ゴールとその達成の確信であるエフィカシーが、ゴールを共有し同じように(&さらに)エフィカシーの高い人々を次々と引き寄せます。

 

次回、コーチングセミナーが鹿児島で開催される際には、そんなハイエフィカシーの場をぜひ体感してください。

 

きっとそこから、今は想像もできないような新たな世界が始まります。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

180625 青山コーチ鹿児島セミナー

青山龍苫米地式マスターコーチのブログより引用




PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-20西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

教育の目的である「自由」とは、どのように定義されているのでしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

Wikipediaには、「自由(じゆう、英語:freedomliberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう」と記載されています。

 

注意すべき点は、外来語である「フリーダム」「リバティ」の和訳として日本語に置き換えられた「自由」と、仏教に由来する本来の「自由」とは同じではないということです。

 

まず外来語としての「自由」から説明します。

 

「フリーダム」と「リバティ」はほぼ同じ意味合いで使われていますが、その意味合いは微妙に異なっています。

「フリー」は古英語の「freo」に由来し「束縛や拘束がなく、義務を免除された状態」です。つまり「~しなくていい」ということです。

「リバティ」はラテン語の「libertas」が語源で「選択や行動・発言の権利が保障された状態」と説明されます。こちらは「~していい」という意味です。

 

どちらの語も「背景に束縛や制約がある」ことを物語っています。束縛や制約があることを前提に、「この範囲であなたの権利を認めますよ」ということなのです。フリーもリバティも元来は「特権」のことを指していました。

「自由」の反対に「束縛」、「権利」の反対に「義務」がある。さらに突っ込むと、世の中には「支配者と奴隷」「ルールを作る側と従う側」がいるということが前提になっています。

 

社会が成熟するにつれ、その中で必ず生まれてくる「権力」の維持のためにルールが利用されるようになります。「私は支配者、君たちは奴隷」といいだす人間がでてきて、ルールが支配の道具になっていきます。

支配者に都合よく作られたルールの中で、「ここからここまでは君たちの権利も認めてあげる」というのが「フリーダム」や「リバティ」の概念です。

私たちが教わってきたものは、そういう「自由」です。

 

では、仏教に由来する日本語本来の「自由」とはどのような意味なのでしょうか?

 

釈迦は、弟子たちに「自らを由(よ)りどころとし、他のものを由りどころとせずにあれ」と教えたといいます。つまり、「思考や行動の判断基準をほかの何者でもない、自らに置きなさい」ということ。

 

鹿児島の先輩 長渕剛さんの「STAY DREAM」中に、「尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある」という一節があります。

 

釈迦がいう縁起とは関係性のことです。私たちは常に何かとの関係性の中に存在しているのであり、その意味で縁起とは「がんじがらめの不自由さ」ともいえます。

その不自由さをしっかり認識して、自らの思考や行動の判断基準で考え吟味し、自らの意志であえてその不自由さに飛び込んでいくことが、仏教に由来する自由の意味です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-19教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

教育の目的である自由とは? ~人形にみる自由と制限の関係~

 

私の子供たちがヒーローもののTV番組に夢中になっていた頃の話です。

 

ほぼ毎月のようにヒーローの人形が発売されていました(主人公やその仲間がフォームチェンジをするたびにおもちゃが発売されます)。私が子供たちにせがまれて買っていたのはソフビの人形ではなく、各関節をかなり自由に動かすことができるプラスチック製のものでした。本物さながらのポーズをきめることができます。

 

しかし、ひと月もたつと各関節はユルユルになってしまいます。関節もプラスチックで構成されているため、遊んでいる間にすれてしまい抵抗がなくなってしまうからです。

関節の動きに注目すると「自由度が大きい状態」といえます。しかしながら、関節を好きな位置で固定できないため、立たせることができなくなります。

 

子供の一人は、お年玉でそのヒーローのプラモデルを買いました。

パーツ数も価格も大人向けのそのプラモでは、各関節にゴムが使われていました。動かすときに若干抵抗があるのですが、広い可動域を保ちながらしっかりと固定することができます。

「潜在的な自由度は大きいが、あえて自由を制限している状態」といえます。

 

思いっきり自由だがユルユルで立たせることができなくなった人形と自由だが制限が加わっていることで思いどおりの姿勢を保つ人形

 

二つの人形を見ながら自由の本質について思いを巡らしました。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

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Q-042:「明確にリアルに目標がイメージできた時点でほぼゴールに近づいた」とは具体的にどういうことでしょうか? Vol.1

 

 御質問をいただきました。ありがとうございます。

(コメントは公開していませんので、ぜひ気軽にご利用ください。メールでもどうぞ)

 

 

Q:質問です。現在自分は目標がありますが、ただ漠然としたイメージの中で目の前の目標に対して取り組んでいます。よく明確にリアルに目標がイメージできた時点でほぼゴールに近づいたと聞きますが、具体的にどういうことなのか教えていただければと思います

 

A:少し長くなりますが、御質問に対して、1)認知科学以降に変わった“リアル”の定義、2)ゴールと現実の関係、3)よくあるゴール設定の間違い、4)ゴール達成前にすべきこと、5)“自我”の考察により明らかになる“リアル”の儚さ、に分けて回答いたします。

 

「ただ漠然としたイメージの中で目の前の目標に取り組むこと」の功罪について理解するための、そして、これからの自分の生き方を“自由意志”で選択するための、大切な知識となるはずです。

 リラックスしながらお読みください。

 

 

1)    認知科学以降に変わった“リアル”の定義

 

“現実”とは何でしょうか?

 

じつは認知科学以降、“リアル”の定義は変わりました。

 

認知科学以前は、目の前の物理的世界が“現実”であり“リアル”であると考えられていました。ところが今は、物理的世界を“リアル”とはいいません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971818.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4971956.html

 

 

そもそも物理的世界とは何でしょうか?

 

直感的にはわかりにくいかもしれませんが、私たちが認識する物理的世界はすべて情報です。

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、そして言語という6つの情報認識手段(それをモーダルチャンネルといいます)により得た情報を、自身のマインドで統合し、再構築したものがその人にとっての物理的世界です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

 

認識には必ず盲点があります。それを「スコトーマ」と呼びます。

私たちは、目の前の物理的世界をありのままに認識しているのではなく、限定的に認識しています。いつも、かつ、必ずです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

スコトーマを生みだすものは“自我”です。

“自我”を現代分析哲学では「評価関数」と考えます。評価関数とは「宇宙を自分の重要性によってならべかえる関数」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

私たちは、目の前の世界を自身の重要性で認識しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721658.html

 

例えば、同じ部屋で過ごしていても、美術が好きな人は壁の絵に目がいくでしょうし、花が好きな人は机の上の花瓶を見てしまうでしょう。本が好きな人は書棚が、きれい好きな人は床のほこりが気になります。

そのように同じ空間にいても、その人の重要性により認識する世界は全く違うものになります。「ありのままに認識しているのではない」というのはそういう意味です。

 

では、その重要性を決めるものは何でしょうか?

 

それは情動を伴う体験の記憶と情報の記憶であることが明らかになっています。つまり、人が認識する目の前の世界は過去の記憶により成り立っているのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

目の前の世界がその人の記憶により作られた重要性による認識で成り立っているのであれば、“現実”とは何でしょうか?

 

“現実”とは、その時に一番臨場感の高い世界のことをいいます。

 

つまり、臨場感が“リアル”を生みだすのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6542364.html

 

例えば、映画の世界に没頭している時は、その映画の世界が“リアル”です。

その時電話が鳴り、あなたがその電話を意識した瞬間に、“リアル”は映画の世界から電話でつながる相手との世界に変わります。瞬時にです。

 

まずは、皆さんがその時に一番臨場感を感じている世界が“リアル”であるということを理解してください。

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 


F-039:サッカーW杯コロンビア戦後の日本人女性侮辱問題 ~「何もないところからレンブラントを発見」の補足説明 Ⅱ~

 

 ブログ記事(F-034:「何もないところからレンブラントを発見は正しい?」)に関して、たくさん御意見・御質問をいただいています。ありがとうございます。

 (コメントは公開していませんので、ぜひ気軽にご利用ください。メールでもどうぞ)

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9672202.html

 

 ブログ記事(F-034)では、

・一昔前の西洋哲学では「存在が関係を生みだす」と考えていた

・東洋哲学では「関係が存在を生みだす」と考える =縁起の思想

・物理学においても(不確定性原理)、数学や哲学においても(不完全性定理)、「関係が存在を生みだす」という縁起の思想が正しいことが証明された

 ・よって、「何もないところからレンブラントを発見」という美術商のコメントは正しい

と書きました。 

 

その「↓」や「よって」に当たる部分について、F-036で詳しく解説いたしました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963314.html

 

今回も別の事例を取りあげながら、目の前の世界(宇宙)は、観測者(認識主体)と目の前の事象の双方向の縁起により存在するということを考えてみたいと思います。

 

case> サッカーW杯 日本vsコロンビア戦後の日本人女性侮辱問題

 

ロシア・ワールドカップのグループH1節 日本対コロンビア戦(2018619日)が行われたサランスクで、コロンビア人男性グループが日本人女性に侮辱的な言葉を口にさせたことが問題となりました。

 

SNS上に公開された動画には、コロンビア代表ユニフォームを着たコロンビア人男性と、日本代表ユニフォームを着た日本人女性二人が映っていました。

コロンビア人男性は映像には映っていない他の男性とともに、日本人女性の一人に「ハポン・ドス(日本2点)、コロンビア・ウノ(コロンビア1点)」とスペイン語で試合結果を言わせた後、「ジョ・ソイ・ビエン・ペラ」との言葉も口にさせています。

 

この「ジョ・ソイ・ビエン・ペラ」という言葉は、「私は良い売春婦です」という意味だそうです。動画は恥ずべきものであるとして、コロンビア国内で怒りとともに一気に拡散されました。

 

「ジョ・ソイ・ビエン・ペラ」という言葉を口にした日本人女性たちは、その意味を理解していませんでした。だからイヤな表情はしていなかったわけですが、その意味を知っていたらきっと怒ったでしょう。

反対にいうと、「意味が分からないからいいだろう」と考えたコロンビアの若者が、敗戦の憂さ晴らしをしたわけです。

 

この時点ではまだ、“侮辱”は(少なくとも日本人女性の心中には)存在していませんでした。

 

その後、SNSに投稿されたその映像を見たスペイン語を理解する人達の認識により、その動画は日本人女性に対する“侮辱”に変わりました。

コロンビア国内で政府が声明を発表するほどの大問題となり、日本でも報道されました。帰国した当該女性たちが「ジョ・ソイ・ビエン・ペラ」の意味を知ったとき、彼女たちにとっても“侮辱”として認識された(存在として新たに生じた)はずです。

 

 

「知らないと認識できない」

「認識すると存在として生じる」

 

 

これは、コーチングではRASとスコトーマのことであり、釈迦哲学では縁起の思想が示唆することです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721658.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

そしてそれは、教育や学習が重要な理由でもあります。

教育や学習は、認識を左右するブリーフシステムの形成に大きく影響を与えます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

情報空間にホメオスタシスが働く人類は、各人の認識により、すなわちマインド(脳と心)によって、目の前の宇宙を生みだすまで進化したといえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4831660.html

 

目の前の世界(宇宙)は、観測者(認識主体)と目の前の事象の双方向の縁起により存在するそれが私たちが生きる宇宙の理です。

 

そして、観測者(認識主体)の知識・知能が上がれば上がるほど観測(認識)される宇宙が「たいしたことがある」ものに変わる可能性があるということが、(繰り返しますが)教育や学習が重要な理由です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124525.html

 

人間一人ひとりの認知のない宇宙は存在しません。

「物理宇宙は情報宇宙のひとつの抽象度に過ぎない」ということは、現代分析哲学で、そして現代物理学で明らかになった事実です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516539.html

 

ということは、「一人ひとりの(一瞬の)価値と全宇宙の価値は全く同じである」といえます。人間の価値にそもそも順位はなく、差別は存在しえないということです。

 

 21世紀の現代社会においても、人々の無意識下には、いまだに差別的な思想が刷り込まれたままです。それは自由を教えるべき教育現場においても垣間見れます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10117071.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10256517.html

 

 哲学や科学の研究で明らかになったのは「一人ひとりの(一瞬の)価値と全宇宙の価値は全く同じである」という真理です。

 

 その真理を学び(教育)、理解(学習)する人が増えるたびに、世界は確実に平和に近づいていきます。私たち人類は“無敵”へと進化していきます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 その“無敵”への進化こそが、自由への道であり、教育のゴールであるといえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 


I-013:【速報】一般向け無料医療講演会(鹿児島県霧島市)のお知らせ

 

 201884日(土)に、霧島市立医師会医療センター(鹿児島県霧島市)で、一般向けの医療講演を行います。午前1011時の1時間の講演会で、私が担当するのは真ん中の20分の予定です。

 

 参加資格は特になく、無料です。

詳細については、後日このブログで紹介いたします。

(霧島市内にお住いの方は、市の広報等に御留意ください)

 

 全体のテーマは「がんの総合ケアと疼痛マネジメント」です。

 私は「がんはもう痛くない!? ~すべての苦痛にサヨナラを~」というテーマで講演する予定です。

 

 「トータルペイン(Total Pain、全人的苦痛)」の中の「スピリチュアルペイン」にフォーカスを当て、その強力な“治療”としてのコーチングを体感していただこうと思っています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8293317.html

 

 短い講演時間ではありますが、ワークも行う予定です。

 医療・介護に携わる方はもちろん、(いい意味で)医療に縁のない方も、ぜひ参加されてください。

 

会場でお会いしましょう!

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-18そもそも教育とは?-8)家庭教育・学校教育・社会教育

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-8)家庭教育・学校教育・社会教育

 

 自由という視点でみると、家庭とは「自由に伴う責任や社会性を身に着けさせる場」学校とは「自由を手に入れるための知識を授け、その実現をサポートする場」社会とは「自身の自由と同じように他人の自由も尊重しながらさらに広げ、実践していく場」といえます。

 

 学校はあくまで学習の場です。子供が幼稚園や小学校に通う前の段階で、親は子供に対する最低限のしつけを終わらせていなければなりません。

最低限のしつけとは、基本的な社会性を身につけさせることです。それが不完全であれば、学校でしっかり学んだとしても、自由をはき違えてしまい、社会に迷惑をかけてしまうことになります。

 

ここで気をつけないといけないことは、社会性を身につけさせるということは、決してがまんさせることではないということです。もちろん、がまんを教える場面も必要です。しかし、がまんそのものは社会性を身につけることではなく、「have to(~ねばならない)」を受け入れるということです。

それは教育の目的から外れているうえ、子供の潜在能力を制限してしまいます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

教育の真の目的は「自由」です。

それは、「子供に自分のやりたいことを見つけさせること」でもあります。

 

多くの親がしつけだと思っていることは、単なる親のエゴの押しつけです。自分の思惑と違うことを子供がするから叱るということに過ぎません。このエゴの押しつけは、会社など組織内でも見受けられます。コンプライアンスというの名のもとに。

 人間の無意識は、押しつられたら押し返します。「have to」であればあるほど、よりクリエイティブに回避しようとします。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882703.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

その場合、主に活動するのは大脳辺縁系による情動処理です。前頭前野外側部が活性化することで可能になる論理的な思考のカケラも見られないはずです。まるで「ファイト・オア・フライト」の状態です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8164566.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8166289.html

 

逆にいうと、エゴの押しつけになっていないかの確認に論理的検証が役にたちます。第二章で紹介したトゥールミンロジックによるディベートです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

 

 以上、「教育」の定義中の言葉を、1)教え育てること、2)望ましい知識・技能・規範、3)学習を促進する、4)意図的な働きかけ、5)望ましい方向へと変化させること、6)人間形成、7)(人間形成に作用する)すべての精神的影響 に分け考察しました。

さらに、「その活動が行われる場」としての8)家庭教育・学校教育・社会教育 についても述べさせていただきました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_124525.html

 

 

 教えるべきものは自由

しかし、同時に自由に伴う責任や社会性、そして論理も教えないといけない

 

 

そんなことを考えながら無邪気に遊ぶ子供たちを眺めているときに浮かんだ自由のイメージについて、次回以降まとめていきます。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 


PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-17そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響

 

 この思想の背景には儒教的な差別思想があります。そして、教育者がこんな言葉を吐いたという事実には、とても大きな問題が潜んでいます。ディベートでいう「クリティーク(KritikK戦略)」です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html

 

「肯定側の推進する論理の背景もしくは前提にある哲学、思想、世界観、利用される用語などが望ましくないものであれば、肯定側のケースやプランの有効性にかかわらず、現実の世界では、肯定側のプランが採択されてはならないという議論」がクリティーク(K戦略)です。

 

つまりK戦略の基本とは「相手の前提となっている価値判断そのものを疑う」ということですが、今回のケースでいえば「『分をわきまえろ』と発言する教師の判断・行動の根底にある考え方(思想、哲学、世界観、ブリーフシステム等)が“おかしい”から、いずれにせよ、その進路指導はよくない」というのが私のK戦略的意見です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

第二章でも取り上げたとおり、釈迦の哲学は縁起であり、そのプリンシプルは「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」と「この世は心が作っている」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

それを大乗仏教では「空」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 仏教は中国経由で日本に伝わりました。すなわち、インドの釈迦を祖とする哲学が中国にわたり、儒教・道教と強く結びついて完成し、その後日本に伝わったものが日本仏教です。

当然、釈迦のオリジナルの哲学は“中国化”されています。

 

反論が多いかとは思いますが、その意味で「日本仏教は仏説ではない(釈迦哲学ではない)」といえます。仏壇にふつうに位牌があるのは儒教の名残であり、地獄や極楽を語るのは布教のための論理です。オリジナルの釈迦の哲学ではありません。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。

すなわち、「この世には初めから違いがある」「その違いに従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

 

支配者や既得権益は、この論理を使ってシステムを強化してきました。

1603年にはじまった江戸幕府が、1867年の大政奉還まで250年以上もの長きにわたってシステムを維持できた背景には、武家層を中心とした(特に朱子学としての)儒教の定着があります。

そしてその取り組みは、忠孝思想が教育勅語に取り入れられるなど明治以降も続き、二度の世界大戦を経て再び強化されようとしています。
 

 学校において「分をわきまえろ」という言葉とともに進路指導が行われる場合、たとえ教師自身が意識していないとしても、それは「私が医学部に行けと言えばちゃんと行け」という命令であり、「親も子も教師に従え」という恫喝です。

 

 教育は「教え育てる」と書きますが、“教える”ものとは「自由」です。

そして、「生じる責任を承知の上で、自由に生きれる心を持つ人間」に“育てる”ことこそが、その真の目的です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

真の教育が行われる環境でこそ、「人間形成」が可能となります。

よって、「人間形成に作用するすべての精神的影響」とは、徹底的に差別を排除した社会から生まれるものであり、「無分別」を是とする釈迦哲学から始まるものです。

 

では、その教育が行われる場としての、家庭、学校、社会とはどのようなものでしょうか?

 

(つづく)

 

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http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9815429.html

 

 

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