ブログ・シリーズ編
S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~
S-02-17:洗脳ではなく教育であり続けるための大切な問い
「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。
ただし、その3つには明確な違いがありそうです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html
このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。
告知(I-030):
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html
S-02-00(目次):
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html
過去3回の記事では「マナーやルールに潜む罠」について考察しました。
罠-1:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html
罠-2:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19370962.html
罠-3:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19477029.html
それらの罠にはまると自由を失います。そして、誰もが本来持っているエネルギーや創造性を徐々に奪われていきます。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html
反対に、マナーやルールにとらわれることなく、自らの意志で設定(更新)したゴールに向かって生き続けると、自由を貫くことができます。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html
その「ゴールに向かって自由を貫く生き方」こそが、前頭前野内側部の活性化を実現し、さらに抽象度を高めていくことを可能とし、そして、社会的情動の次元へと至る扉を開きます。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html
社会的情動の次元がコンフォートゾーンになると、ごく自然にモラルを堅持することができるはずです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040892.html
S-02-13にまとめたとおり、「前頭前野内側部を活性化させながら抽象度をさらに上げていき、社会的情動(感性)の次元で生きる(生きようとする)」ことが、21世紀の人類にふさわしい生き方です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html
そのような大切な生き方を次世代に伝えることが教育の重要な機能。そして、自らがそんな生き方に挑戦しながら子どもたちにしっかりと示すことが親や教師の役割です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html
以下、苫米地英人博士の「現代洗脳のカラクリ」(ビジネス社)から引用します。
洗脳されることに慣れている私たち
私たちが批判的に物事を見ることができない理由は洗脳されることに慣れていることに起因します。
ここで、「いやいや、私はこれまで一度も洗脳されたことがない」と思ったら、要注意です。
事実はその逆で私たちは誰でも洗脳経験者ですし、洗脳されることで成長してきたと言っても過言ではないくらいなのです。
実は、私たちにとって最も身近な洗脳者は親であり、洗脳機関は学校です。
教育こそが私たちが最初に経験する洗脳になります。
覚えているでしょうか?
本書の冒頭部分で、「私たちは洗脳から逃れることは絶対にできないのです」と書きました。
それは私たちが洗脳されることによって人格を形成してきたからです。親からの洗脳、教師からの洗脳、社会からの洗脳によって私たちは人間社会における生き方を学んできました。
勉強しなさい。社会のルールを守りなさい。働きなさい。人には優しくしなさい、などなど。
こういったことが重要だと刷り込まれることで、私たちは社会生活を円滑に進めることができるようになります。人間社会のほうでも構成員の一人ひとりが社会のルールを覚えてくれることで初めて成り立ちます。
もちろん、これは悪いことではありません。
しかし、一人の人間をルールが遵守できるように仕立て上げることは基本的に洗脳と変わりません。
では、洗脳と教育を分ける境目は何でしょうか?
それは本人の利益になっているか、本人以外の第三者の利益になっているか、です。情報操作の結果が本人にとって利益となるのであれば洗脳とは言わず、教育となるわけです。
ただし、やり方そのものは教育も洗脳も大差ありませんから、私たちが洗脳経験者であることは動かしがたい事実なのです。
引用終わり
私たちは洗脳から逃れることは絶対にできない
…よって、親や教師は、「本当に本人の利益になっているか?」「本人以外の第三者の利益になっていないか?」と自ら問い続けなければなりません。
その上で「抽象度を高める」生き方をその問いとともに伝授することができれば、子どもたちは自然に人間形成の階段を駆け上がっていくはずです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html
マナーやルールに縛られることなく、100%want toで。自由を貫きながら、モラルに反することなく。
(S-02-18につづく)
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)
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http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13077001.html
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