ブログ・シリーズ編
S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~
S-02-15:マナーやルールに潜む罠 -2
「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。
ただし、その3つには明確な違いがありそうです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html
このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。
告知(I-030):
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html
S-02-00(目次):
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html
前々回(S-02-13)の最後にこんな問題をだしました。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19152788.html
Q:「モラル」はみんなで遵守する前提で、理想的な生き方は下記のうちどれでしょうか?
A:マナー違反もルール違反もしない
B:マナー違反はすることがあるが、ルール違反はしない
C:マナー違反はしないが、ルール違反はすることがある
D:マナー違反もルール違反もすることがある
…模範解答としては「A」ですが、意識状態(あるいは人生に臨む態度)としての理想的な生き方は、じつは、「D」です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html
その理由は大きく3つあります。
1つ目は、「want to」が「have to」になるから
2つ目は、(とくにルールの話ですが)論理で考えるということは物事を相対化することであるから
そして、3つ目は、マナーやルールは圧倒的に権力者(既得権益)に有利につくられているから
…です。
それぞれを解説します。
罠-1:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/19262882.html
<2> 論理で考えるということは物事を相対化することであり危険である
ルールは「論理空間」に存在します。
(論理空間に存在しない、あるいは論理的に破綻したルールもあります。それは別の機会に取り上げます)
論理空間には不完全性定理が働きます。つまり、“絶対に正しいルール”は存在しないのです。そして、世の中には決して相対化してはならないものがあります。例えば「命」がそのひとつです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html
ところで、皆さんは「人を殺してはいけない理由」を子どもたちにどのように説明しますか?
…子どもたちに教えるべきことは、「命を議論の対象にしてはいけない」です。鹿児島弁でいえば「ぎをゆな(議を言な)!」。人を殺してはいけない論理的な理由(説明)があるから人を殺してはいけないのではなく、ただただ「人を殺してはいけない」と教えるべきです。
そこには論理も理由もありません。「いけないものはいけない」のです。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958415.html
S-02-11で御紹介したアインシュタインの言葉中にある「直観的な感情」「直観的な反発」は、脳幹部や大脳辺縁系処理の話ではありません。大脳辺縁系どころか、「人間を殺すことは良いことか悪いことか?」「どこからが残虐行為か?」「憎悪とは何か?」といった論理的な議論(ディベート)を前頭前野背外側部で徹底的に行うことまでも超越して、“直観的”に拒絶しています。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18911304.html
その“直観”とは、論理空間を超越した空間(次元)にアクセスしている状態を意味します。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html
なぜ論理空間を超越しなければならないのかというと、「論理とは物事を相対化することだから」です。相対化した瞬間に「人を殺してもいい理由」が生まれる可能性が生じます。そして、論理空間には必ず“不完全性”が働きます。
そこに多数決などの数の論理が加われば、民主主義の名のもとに大量殺人が行われる可能性さえ生じます。「平和のために戦争を行う」選択が生じるのです。これはまさに、今、世界が直面している危機です。
言うまでもなく、私たちの意志決定のプロセスは民主主義です。民主主義の基本は徹底的な思考や自由な議論を通じてよりよい意思決定を行うこと。私が属するあるコミュニティではいまだに「組織票」という考えが残っていますが、それは民主主義を完全に否定するものです。
一人一票による多数決で意思決定が行われる場合に決して忘れてはならないのが、「マイノリティの方が、もしかしたら正しいかもしれない」という視点。この視点を忘れたデモクラシーは単なる数による圧政になり、権力者のさらなる暴走を許すことになります。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html
(S-02-16につづく)
苫米地式認定コーチ
苫米地式認定マスターヒーラー
CoacH T(タケハラクニオ)
-追記-
民主主義に関連して、第16代米国大統領 エイブラハム・リンカーン(1809~1865年)が、1863年にペンシルベニア州ゲティスバーグの国立戦没者墓地の奉献式で行った演説から引用します。
我々の目の前に残された偉大な事業に身をささげるべきは、むしろ我々自身なのである。
それは、名誉ある戦死者達が最後の力を振り絞って命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで我々がさらなる献身を決意することであり、戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神のもとで自由の新しい誕生を迎えるために、そして人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)を決して消滅させないために、我々がここで固く決意することである
-関連記事-
シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html
エイブラハム・リンカーン
Wikipediaより引用
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