Q-098:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか? <中編>

 

 

Q:子どものwant toを大切にしたいと思っていますが、なぜかhave toの押し付けになってしまいます。どうすればよいでしょうか?

 

A:同様の質問をたくさんいただいています。子育て中の親に限らず、管理職やリーダーのポジションにいる人にとっても、「モチベーション」が切実なテーマだからだと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882609.html

 

 ところで、Q-011で「人にhave toを仕掛けないためにはどうすればいいでしょうか?」という質問に回答いたしました。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6681096.html

 

 そこでは4つのポイントを挙げました。その4つとは、

 

1)     まずは自身が自由意志でゴールを設定し、want toで生きること

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 

2)     何がhave toを生みだすかを知り、それら(have toをうみだすもの)を人を支配する目的で使わないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13523715.html

 

3)     不完全性定理や不確定性原理から導きだされる真実「この世に“絶対”はない」を忘れないこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194669.html

 

4)     ゴールを重ねていくこと

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

 です。  

 

 

その4点をふまえた上で、今回は「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」と「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」という二点についてまとめてみたいと思います。

前編:「子どもにhave toを押し付けてしまうのはなぜか?」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18456079.html

 

 

 次に「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」です。

 

 「子どものwant toを大切にし続ける」ために大切なのは、親の価値観を絶対に押し付けないことだと思います。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9672735.html

 

 「私は子どもの意志を尊重している」「子どもに価値観を押し付けることはない」と自信がある方ほど、じつは、注意が必要です。その過信がhave toを生みだし、(生みだしたhave toを)ますますスコトーマに隠します。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721610.html

 

 そもそも日本人が使う「家族」や「子育て」という言葉自体に、すでにhave toが潜んでいるのかもしれません。

 

 

 ちょうどこの原稿を仕上げている頃(2019722日)に、吉本興業の岡本昭彦社長が所属芸人の闇営業問題に関する会見を開きました。その会見は反社会的勢力が参加するパーティーに出席しギャラをもらっていた(しかも虚偽の報告をした)として解雇された芸人側の告発会見を受けてのもので、闇営業騒動後初めての会社側の公式会見でした。

 

 その会見については様々なメディアで取り上げられていますが、私がとても気になったのは「俺には全員をクビにする力がある」という自身の発言について、「冗談といいますか、和ませるといいますか」「家族というか身内というか、いいかげんにせえよと」「父親が息子に“勘当や”というつもりだった」と釈明したことです。

 

 家族、身内、父親、息子

 

これらの言葉を釈迦哲学で理解していれば問題はありません。しかし、儒教的に誤って解釈しているのならば大変危険です。その誤った解釈により、儒教的な「アプリオリ、かつ、絶対的な違い」、すなわち「差別」が強化されてしまうことになるからです。

 

日本の文化の多くは中国や朝鮮から伝わりました。例えば仏教でいうと、そのオリジンはインドの釈迦を祖とする哲学ですが、中国で儒教・道教と強く結びついた後に日本に伝来しています。よって、釈迦オリジナルの哲学は“中国化”されているといえます。

 

「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。「この世には初めから違い(=差別)がある」「その違い(差別)に従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14249741.html

 

支配者や既得権益、今回のテーマでいうと父親は、この論理(差別思想)を使ってシステムを強化してきました。

 

人類の進化途上において、かつての社会は「権力を持つ者」(「父親」)がそれ以外の「下々の人々」(「家族」)を支配し搾取するという構造でした。

「下々の人々(子ども)にはそもそも権利はなく、それは支配者(父親)から一方的に与えられている」という理不尽なその構造は、“社会的洗脳”により民衆(家族)の潜在意識に植えつけられました。儒教的な「御恩と奉公」という言葉や吉本社長会見での「家族」の使われ方がそのいい例です。

 

長い闘争の歴史を経て、人類はより進化した構造を手に入れました。

そこでは権利は「アプリオリ(先験的)に、等しく、生じているもの」。「生来の違いなどなく、すべては(本質は)同じである」という思想は、2600年前に釈迦の縁起が示唆していたものでもあり、仏語でいう「無分別」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

「あるものと別のものを分け隔てない」というその考え方は、「すべてを同じとみる」視点であり、その本質は「抽象度を上げること」です。それは、「犬」と「猫」を同じ「動物」とみる視点であり、「動物」と「植物」を同じ「生物」と理解できる力といえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

その「無分別」の対極にある分別という概念の根底には、差別思想があります。

もしも「空観(くうがん)」がしっかりと維持されているのであれば、分別は許されます。「空(くう)」であることを十分に分かった上で、機能・役割により仮としての違いを見出すことは「区別」です。それは「差別」とは本質的に異なります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

親はその違いをしっかりと理解し、次世代にちゃんと伝えなければなりません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9817539.html

 

 

 じつは、「無分別」を教え伝えること自体が、「子どものwant toを大切にし続けるためにはどうすればいいか?」という質問への回答になります。

 

Q-099につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                       

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記―

「アプリオリ(先験的)に等しく生じているお互いの権利」を活用するために(そして、守りぬくために)、契約の概念とともに様々なルールが情報空間に生まれました。

例えば、簡単には解雇できないこともその一例で、それが現代の(本来あるべき)社会の姿です。「だまし討ち」など論外で、労働基準法はもちろん、憲法で保障された国民の権利そのものを侵害しています(日本国憲法第3章第27条)。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13628437.html

 

 現在、マナーやルール、モラルを通して自由を考察するシリーズ(シリーズ編第2弾)を連載中です。どうぞ御確認ください。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_368012.html

 

 

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The Power of Mind Ⅰ」第五章(目次):

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13077001.html