ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-07:ルールは“自分中心”を克服するためにある

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

この事例からわかることは「社会の中のさまざまなシステムは『ルール』で維持されている」ということ。

では、なぜ「ルール」が必要なのでしょうか?

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/18339924.html

 

 

答えは、「煩悩のコントロールのため」です。

 

“煩悩”とは、脳幹レベルや大脳辺縁系レベルでの情報処理のこと。簡単にいうと「自分だけがよければよい」という「自分中心」、いわゆる「自己チュー」のことです。

 

「自分中心」の人は、決して“本当の幸せ”を感じることができません。

 

人間関係に軋轢を生じ、自分自身の心の傷を深くしてしまい、そして、いつまでも変化(進化、向上)することができず、チームの足も引っ張ってしまう。さらには、“本当の幸せ”を感じることもできない悲しい生き方

 

それが「自分中心」という生き方です。その詳細は「人間関係」をテーマとしたシリーズ編第4弾で取り上げる予定です。

 

 

 「煩悩のコントロール」を「自分中心の克服」と捉えると、ルールは教育においてもとても大切な役割を果たすといえます。教育の目的は人間形成だからです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

 ただし、本来の役割を忘れてしまうと、ルールはかえって教育に弊害を与えるものとなってしまいます。子どもたちの自由を奪い取る破壊装置となってしまうから。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 

 私たちはルールの本来の目的を忘れることがあってはなりません。

 

 

他者を気遣う気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた“規制”が「ルール」

「マナー」も「ルール」もシステム(社会)を成り立たせるために存在している

「ルール」は煩悩をコントロールして自分中心を克服するきっかけとなりえる

 

 

「ルールの本来の目的を忘れること」の一例として、「ルールを守りさえすればいい」という考え方があげられます。

 

「ルール」を守ることは、なによりも優先されるべきことなのでしょうか?

もし「ルール」が守れなかった場合、罰を受けさえすればよいのでしょうか?

 

 (S-02-08につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

「マナー」や「ルール」に従わない人のことを「自由人」と表現することがあります。

しかしながら、それは完全な誤りです。自身の煩悩に支配されたままで、まったく自由ではないのだから。

この誤用も「ルールの本来の目的を忘れること」の一例です。

 

以下、ピーター・F・ドラッカー(19092005年)の言葉を紹介します。

 

自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。それは選択の責任である。権利ではなく義務である。真の自由は何かからの自由ではない。それでは特権に過ぎない。

自由とは、行うことと行わないこと、ある方法で行うことと他の方法で行うこと、ある信条をもつことと逆の信条をもつことからの選択である。楽しいどころか重荷である。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任である。

                             「産業人の自由」より

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

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 F-052~「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_268337.html