ブログ・シリーズ編

S-02:自由に生きるために ~マナー、ルール、モラルについて考える~

S-02-06:社会の様々なシステムは「ルール」で維持されている

 

 「マナー」「ルール」「モラル」は(議論を通じて出来上がった)誰もがよりよく生きるための約束事のはずですが、一方でお互いの自由を奪い合う装置として働きます。

ただし、その3つには明確な違いがありそうです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400987.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_292569.html

 

 このシリーズ編第2弾(S-02)では、自由に生きることをテーマに、マナーやルール、モラルについて考察します。ぜひ皆さん自身の自由について思いめぐらしながら読み進めてください(Don’t think. Feel!)。

 告知(I-030):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17320680.html

 S-02-00(目次):

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/17563396.html

 

 

 マナーとルールをシンプルにまとめると、

 

「他者を気遣う」気持ちの表れであり、“自主規制”であるものが「マナー」

 

言語により具体的にし、かつ、“自主”を取り除いた社会全体で共有する“規制”が「ルール」

 

といえそうです。

「ルール」の場合、他者(あるいは社会)による罰が生じえます。

 

 

では、再度具体的な例で考えてみましょう。

 

case 11:遅刻を繰り返す専門職労働者Aの場合>

あるグループ会社があります。その中核的な組織は様々な専門職で構成されています。その中でも特に重要なある専門職は全国的に不足しているため、なかなか人員確保ができません。そこでその組織では、常勤の4名に加え、人材紹介会社に高額のフィーを払って、さらに1名の専門職を確保しています。

ところが、紹介された専門職Aは遅刻を繰り返します。時には2時間近くも遅刻するため、会社全体にまで悪影響が及んでしまいます。そのため重要かつ緊急な案件の場合は、常勤専門職が自身の業務を中断し、その派遣専門職Aの業務を代行しています。

それなのに遅刻を繰り返すAからは感謝どころか謝罪さえも一切ありません。さらには遅刻を注意されると逆ギレし周囲に当たり散らします

 

さて、このケースは、「マナー違反」でしょうか? それとも「ルール違反」でしょうか?

 

 

現実的にはありえない極端な例と思われたでしょうが、この事例はクライアントの実体験をもとにしています(プライバシー保護のため変更を加えてあります)。

当然ですが、このケースは「マナー違反」であり、かつ「ルール違反」です。

 

「マナー」とは「『他者を気遣う』気持ちの表れであり“自主規制”」でした。

 

どんなにうまく言い逃れしようが、遅刻を繰り返す行為には「『他者を気遣う』気持ち」はありません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

むしろ言い逃れするほど「『他者を気遣う』気持ちに欠けている」といえます。それは抽象度の低さの表れでもあります。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4448691.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4449018.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/4516484.html

 

 心理学者 アブラハム・マズロー(19081970年)の「欲求階層説(自己実現理論)」でいうと、低層を抜け出せず成長ができていない状態です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9963845.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9966391.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10116950.html

 

もちろん、遅刻する自分をコントロールできないのですから、“自主規制”に失敗しています。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10400928.html

 

自分をコントロールできないためにまわりに迷惑をかけていることに対して詫びることができればまだ希望があるのですが、謝罪も感謝もできないばかりかむしろ“逆ギレ”しているのですから、どうしようもないくらいの「マナー違反」です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10691753.html

 

 

許しがたいほどの「マナー違反」ではありますが、もちろん、このケースでの重要な問題(解決するべき課題)は「ルール違反」にあります。なぜなら、「ルール」はシステム(または社会)を維持するために必要だからです。

遅刻常習専門職Aの存在により会社(組織)のムードが悪化し、システム自体が崩壊するかもしれません。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10692725.html

 

そのことをサッカーで考えてみましょう。

 

サッカーは、スポーツの中では「ルール」が少ないスポーツです。

「前半・後半計90分の得点で勝敗を決める」「(キーパー以外)手は使わない」「人を傷つけるような行為はしない」など、明文化されたルールを遵守することが求められ、しかも審判の判定には絶対的に従わなければなりません。

そうしないとサッカーというゲーム(システム)が成り立たないからです。

 

もしも勝手にボールを持って走る選手がいたら

もしも相手選手を故意に傷つける人がいたら

もしも審判の判定をまったく無視してプレーを続行したら

その場合、サッカーというゲームは成立しません。     

 

つまり、ルールを守れない選手はサッカーをしてはならないのです。ルールを守ろうとしない人間にはフィールドに立つ資格がないといえます。

 

 

ビジネス現場はもちろん、社会一般においても同様です。

「ルール」を無視する人間には、そもそも働く資格がありません。(厳しいようですが)社会システムの中に存在し続けること自体が許されません。

 

このケースで雇用が継続しているのは「代わりがいないから」です。遅刻常習専門職Aと会社との雇用関係は、人材不足の中でお互いのニーズを満たす縁が結ばれるまでのタイムラグ中の出来事に過ぎません。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

 「お互いのニーズを満たす縁」をコーチングの言葉で言い換えると、「ゴールを共有している状態」「コレクティブエフィカシーの関係」と表現できます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615935.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5616012.html

 

 

この事例からわかることは「社会の中のさまざまなシステムは『ルール』で維持されている」ということ。

 

では、なぜ「ルール」は必要なのでしょうか?

 

 (S-02-07につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-関連記事-

シリーズ編第一弾(S-01)「よりよい“議論”のために」

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_254557.html

 

 

自己実現理論(Wikiより引用)

欲求階層説(自己実現理論)

Wikipediaより引用