PMⅠ:The Power of Mind

PM-06:職場への苫米地式コーチング導入挑戦と明らかになった課題

PM-06-20:仮説13-3)宗教の限界 -後編-

 

この章(第六章)では、「院長を務めていた病院へのコーチング導入“失敗”」という事例について、仮説を立て、トゥイーキングを行っていきます。その目的(ゴール)は、「失敗から学び、“いのちの現場”にコーチングをしっかり届けること」です。

告知:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13216030.html

“失敗”を解決する方法:http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13397552.html

 

 

仮説13-3)宗教の限界 -後編-

 

アインシュタイン博士とゲーデルの二人は敬虔なユダヤ教徒でした。御承知のとおりユダヤ・キリスト教は一神教であり、「全知全能の存在」を前提としています。

 

 

ゲーデルは天才ゆえに、自分が証明してしまった「自然数論における不完全性」が、将来、絶対神の存在を否定してしまうであろうことに気づいたのだと思います。

絶対神の存在を信じるユダヤ教徒としての自我と、結果的に神を否定してしまう科学者としての自我の、決して埋まらないギャップに苦しむことで徐々に精神が蝕まれていったと考えられます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5882652.html

 

事実、ゲーデルは、神の存在を証明することに人生の後半を捧げました。そうして完成した神の存在を証明する論文を最後まで公表しなかったのは、科学者としてのプライドが許さなかったからだと推測できます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6040752.html

 

ゲーデルは科学的真実を探求する科学者としての姿勢を貫きながら、どうしても「宗教」というゲシュタルトを超越することができなかったのです。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6193912.html

 

 

アインシュタイン博士も同様です。

量子論の世界は1036mの極小の世界です。そこでは存在は確定的なものではなく、確率的なものにしかすぎません。

 

すべての最初に絶対神の存在があると考える一神教の世界を信じて疑わないアインシュタイン博士にとって、その事実は受け入れられないことでした。

つまり、アインシュタイン博士も「宗教」というゲシュタルトを超えることができなかったのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7383761.html

 

 

我々の直面する重要な問題は、その問題が生じたのと同じ考えのレベルでは解決することができない

We cant solve problems by using the same kind of thinking we used when we created them.

 

 

 これは第四章で紹介したアインシュタイン博士の言葉ですが、皮肉にも「宗教という考えのレベル」を超えられないために量子論を受け入れることができなかった博士の晩年の姿が、この言葉の重要性を証明しています。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8749123.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/8900535.html

 

 

これからの医療は物理空間に近い抽象度での働きかけとともに、情報空間での働きかけ(内部表現の書き換え)がますます求められるようになります。よって、「禅道場を持つことが21世紀の医療の象徴になる」ことは間違いではありません。

 

しかし、「宗教」という言葉にとらわれると、言い換えると「唯一絶対のモノサシが存在するという幻想」にとらわれてしまうと、私たちはゲーデルやアインシュタイン博士と同じ轍を踏むことになってしまいます。

 

21世紀に生きる私たちには、不完全性を受け入れ、より高い抽象度で思考することが求められています。それは縁起の理解であり、中観の実践です。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html

 

 

では、「宗教」を超えた世界とはどんな世界なのでしょうか?

 

 

私は、その世界を表現する言葉は「哲学」だと考えます。

 

アインシュタイン博士の言葉中にある誤りとは「宗教」という表現です。私は「宗教」を「哲学」に置き換えます。アインシュタイン博士が21世紀に生きる私たちに残した宿題に対しての私の回答です。

 

 

哲学なき科学は不具合であり、科学なき哲学は盲目である

Science without philosophy is lamephilosophy without science is blind.

 

 

 繰り返しますが、21世紀に生きる私たちは、不完全性を受け入れ、より高い抽象度で思考することが求められています。そして、その思考を続けることも。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/14120540.html

 

 

<仮説13:不完全性定理の証明により宗教の限界が明らかとなった現代は、「唯一絶対のモノサシが存在するという幻想」を捨てて哲学的思考を続けることが求められている>

 

<トゥイーキング13:哲学的思考と科学的思考の両立を目指す>

 

    不完全性定理が証明された現代においては、「唯一絶対のモノサシが存在するという幻想」を捨て、より高い抽象度で哲学的思考を行うことが求められている

    その一方で、抽象度の低い物理次元へ向かう科学的(工学的)思考はますます重要となり、その両立こそがポイントとなる

    医療でいえば、物理空間に近い抽象度での働きかけとともに、情報空間での働きかけ(内部表現の書き換え)がますます求められるようになる

 

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

 

-追記-

 アインシュタイン博士とボーアの量子力学の解釈に関する論争は、存在に関する哲学的信念の違いとみることができます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

 その違いは二人の発言にあらわれています。

 

 「我々が科学と呼ぶものの唯一の目的は、存在するものの性質を明らかにすることである」というアインシュタイン博士に対して、ボーアの立場は「量子の世界というものはない。あるのは抽象的な量子力学の記述だけである。物理学の仕事を自然を見いだすことだと考えるのは間違いである。物理学は自然について何が言えるかに関するものである」です。

 

 アインシュタイン博士とボーアの違いは、西洋医学と東洋医学の違いにも当てはまります。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/13958654.html

 

 

-関連記事-

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/7554690.html

 

ニールス・ボーア(Wikipediaより)

ニールス・ボーア

Wikipediaより引用