Q-065:認知的不協和の状態にあり頭痛が続いています。適切なアファメーション、ビジュアライゼーションはどうすればよいでしょうか? Vol.2;西洋医学と東洋医学の違い

 

 認知科学者 苫米地英人博士の読者の方から御質問をいただきました。セルフヒーリング&セルフコーチングのコツをイメージしながら、しっかりとまとめてみました。

シリーズ(計八本)でお届けします。

Vol.1 はじめに(目次):

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Vol.2;西洋医学と東洋医学の違い

 

医療の現場にいると日々痛感しますが、日本の医療は西洋哲学がベースになっています。

「存在があり、関係が生まれる」というその根底にある考え方を医療に当てはめると、「病があり、それを診断し治療する」という感じです。

 

「病が“ある”」「体が“ある”」といえるのは、(あたりまえと感じるでしょうが)「物理空間が“ある”」ことが大前提になっています。

 

 ルネ・デカルト(15961650年)に代表される物心二元論(実体二元論)は、「この世界にはモノとココロという本質的に異なる独立した二つの実体が“ある”」というものです。実体とは「他の何にも依らずそれだけで独立していて存在しうるもの」のことで、アプリオリ(ア・プリオリ)と表現されます。

 

 物理空間に実在する体と、体とは別に存在する心が、「強い相関関係をもつ」というのが心身医学(心療内科)の根底にある考え方です。それを心身相関と表現します。体と心が別々のものであるという大前提のもと、体を対象にしているのが心療内科で、心を対象としているのが精神科です。

 余談ですが、心療内科の講座と診療科を持つ大学は、九州大学、東京大学、東邦大学、関西医科大学、そして私の母校である鹿児島大学の五大学のみです。

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 この西洋医学の枠組みでは、病は絶対的存在です。よって、「アプリオリに存在する病を明らかにし(精査、診断)、ふさわしい治療を行う(薬物治療や手術など)」「心理的要因も悪影響を及ぼしているので、心と体を切り離さず総合的な医療を行う」という考え方になります。

 

 御相談の頭痛でいえば、「頭痛の原因を精査し、ふさわしい治療を行う(脳腫瘍や動脈瘤等の器質的疾患が原因であれば手術など。二次性でなければ薬などを吟味)」「(一番多い筋緊張型頭痛はとくに)ストレスが症状悪化の要因となるので、心のケア(カウンセリング等)や生活習慣の見直しも行う」という対応です。

 

 

 「存在があり、関係が生まれる」という西洋哲学に対して、東洋哲学では「関係があり、存在が生まれる」と考えます。それは「原因によって結果が起きる」という釈迦の縁起の思想がベースになっています。

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 「原因によって結果が起きる」「関係が存在を生みだす」という考え方は、「だから普遍的な実体などなく、物事は常に変わりゆき、永遠に変わらないものなどない」という考え方につながります。さらに突き詰めると、「この世に絶対はない(アプリオリなものはない)」と「この世は心(マインド)がつくっている」というプリンシプルにいきつきます。

 それを大乗仏教では「空(くう)」と表現します。

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 釈迦哲学をベースとした東洋哲学の枠組みでは、病は「あるといえばあるし、ないといえばないもの」「あるともいえないし、ないともいえないもの」です。相対的存在であるともいえます。

 

例えば、西洋的な価値観(ブリーフシステム)では、心不全や腎不全は年齢に関わらず病と考えます。年齢を考慮して無理に治療を行わない場合、病の存在を前提とした上での「様子をみましょう」です。それは「諦める」に近い感覚であり、医療従事者の本音でいうと「敗北」です。

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それに対して、東洋的な考え方では、心不全や腎不全を「高齢者の自然な状態」と捉えることを否定しません。無理に治療を行わない場合、(病を包摂する)死に向かう自然な状態であることを前提とした上での「様子をみましょう」です。それは「受容する」に近い感覚であり、その時医療従事者が意識するのは「人生の最終段階(End of life stage)の支援」です。

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もちろん、年齢で簡単に分別できるわけではありません。その人、その時の状況によって、病であったり、病でなかったりするといえます。

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御相談の頭痛でいえば、「頭痛は絶対的に存在するものではない(アプリオリではない)」「頭痛は心(マインド)がつくっている」とまずは考えます。よって、「リラックスして、自身の心を見直そう(止観)」という対応からはじめます。その上での医療です。

 

 「認知的不協和」を「頭痛の一因(主因)」と捉えている今回の御相談者は、(さすが苫米地博士の読者だけあり)止観がしっかりできています。

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それは苫米地式コーチ/ヒーラー兼医師の私にとって、とてもうれしいことです。「すべての人が四苦(生老病死)を縁起的視点で解決することができ、苦しみから解放されている」というのが私のビジョンのひとつだからです。ビジョンとは、ゴールが叶ったときに自分が見ている世界(イメージ)のことです。

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 しかしながら、世間はいまだに西洋的なパラダイムに囚われたままです。20世紀の終わりに不完全性が証明されたという事実がスコトーマに隠れたままで、コンフォートゾーンを変えることができていません。

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不完全性定理や不確定性原理が証明された現代においては、「神が創造した完全なる宇宙では始まりにすべてが決まっている。そして、その初期値と連続する因果の当然の帰結として現在の個々の思考や行動がある」という西洋哲学の因果律は完全に崩壊しました。「病が“ある”」「体が“ある”」ことを真とする「物理空間が“ある”」という大前提が崩れたのです。

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 「すべては決定的ではない」という事実は、西洋哲学から東洋哲学へのパラダイムの転換を求めています。もちろん医療においても。

 

 

 じつは、そのパラダイムシフトの鍵となるものは、医療現場にすでに広がりつつあります。

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そして、それはこれから世界が迎えることになる「超高齢化社会」における医療の重要なポイントでもあります。

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その“鍵”とは「抽象度」。

 

次回(Q-066)説明いたします。

 

 (Q-066につづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)    

 

 

-追記-

 

詳しくは後述しますが、苫米地式コーチング(&ヒーリング)は、西洋哲学と東洋哲学を包摂した立場をとります。

 

その理論的バックボーンである「超情報場仮説(理論)」では、「情報が物理空間(情報空間の底面)で実体化している」とし、物理的身体を情報の写像とみます。病は相対的な存在であり、物理空間上での自己表現です(もちろん健康も自己表現です)。

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違う言い方をすると「病とは情報空間のバグ」といえ、仮観的には「何らかの機能・役割」です。

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その「バグ」や「機能・役割」といったものを、より高次の抽象度次元(情報場)で書き換えていくのが「苫米地式」です。

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