PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-22現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―後編-

 

西洋の現代分析哲学を用いて「自我=私」を定義することで自由の意味を考えると、どのようにいえるでしょうか?

 

前回は、部分関数を使って「自我=私」を定義しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/10543825.html

 

「自我=私」は、評価関数を使って定義することもできます。

 

評価関数とは、「自分にとっての重要度で宇宙を並べかえる関数」です。

前回は「私」を定義するために、「私の家族は○○」「私の仕事は○○」などと考えましたが、それは自分にとって重要なものを取り上げ、その順番で(自分の)宇宙を決めていることといえます。

この時の重要性の順番が、「私」を定義することになります。

 

 ここまで何度も述べてきたとおり、「評価関数」のほとんどが親の影響により決められています。具体的には「情動を伴った体験の記憶」と「抽象化された情報の記憶」です。

表現を変えると、「人は、過去の記憶によって、他人に作られている」といえます。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html

 

ここで、抽象度を考えます。

現代分析哲学において、情報量の大小で概念を階層化する際に、情報量の少ない状態を「抽象度が高い」と表現し、情報量が多い状態を「抽象度が低い」と表現します。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/cat_123517.html

 

抽象度とは、パソコンのフォルダ(階層)構造のようなものです。より大きいフォルダを作ることが「抽象度を上げる」ということです。例えば、<犬、猫、動物>という集合を考えたとき、抽象度で考えると「犬」と「猫」は同じ抽象度の階層にあり、「動物」はひとつ上の抽象度にあると考えることができます。

 

「猫より犬が好き」な人は「犬」を「猫」より重要と考える、つまり「犬」と「猫」を分別する「自我」で宇宙を並べかえています。このときに「犬」と「猫」を分別せず、抽象度を上げて「動物」と考えられる人は、自由度もひとつ上がっているといえます。

 

「犬か?、猫か?」というこだわりがなくなることで、マインド(脳と心)が解放され、思考が自由にできるようになるのです。

 

二つのもののどちらがより重要かという評価をなくしていくこと

 

これが自由になる秘密です。そして、それは「“無敵”になること」ともいえます。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5446097.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5448151.html

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5615695.html

 

「自我=私」について考える時に「部分関数」や「評価関数」を抽象度を上げて捉えなおすことが重要です。

 

「私」の抽象度を上げ、「私」の定義を広げていく生き方こそが、現代分析哲学が示唆する“自由な生き方”といえます。

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)