PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-21現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―前編-

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

現代分析哲学を用いた「自我=私」の定義から明らかになる自由の意味 ―前編-

 

では、西洋の現代分析哲学を用いて「自我=私」を定義することで自由の意味を考えると、どのようにいえるでしょうか?

 

現代分析哲学では、概念および存在を部分関数(Partial Function)で定義します。部分関数とは「分ける関数」のことです。

部分関数の考え方では、部分を定義することにより、その補集合、つまり定義した部分以外のすべても定義することができます。例をあげると、自然数の中の偶数という部分関数を定義すれば、偶数以外のすべての自然数、つまり奇数が定義されるという感じです。

 

さらに概念だけでなく、物理的な存在も部分関数で定義できます。

ある特定の個人の存在を定義する場合なら、宇宙をその個人とその個人以外のものに分けます。そうして、その個人を完璧に定義することができれば、その個人を除く全宇宙を定義できたことになります。

 

この部分関数を使って「自我=私」を定義します。

 

「私」を定義しようとすると、「私の家族は○○」「私の仕事は○○」「私の住んでいるところは○○」「私の通った学校は○○」「私の好きな食べ物は○○」など情報をたくさん並べて定義しようとします。

 

しかし、どこまで説明しても、それは「私」の定義とはなりません。

 

「私」を語ったはずが、「私」と何かの関係性を語っているだけだからです。しかもその関係性は詳しく定義するほど(例えば「家族とは○○」「仕事とは○○」と定義の定義をするほど)、どんどん「私」から離れ、まわりに広がっていきます。

「私」を語ろうとして、「私以外の宇宙のすべて」を語っていくことになるのです。

 

それは、「私以外の宇宙のすべて」が「私」を定義していると考えることもできます。

 

つまり、「私」と「宇宙」は表裏一体なのです。

 http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353425.html

 

このことを釈迦は、「縁起」という概念を用いて説明しました。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)