PMⅠ:The Power of Mind

PM-05苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ

PM-05-20西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。

 

 

西洋的な自由の概念と仏教での自由

 

教育の目的である「自由」とは、どのように定義されているのでしょうか?

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html

 

Wikipediaには、「自由(じゆう、英語:freedomliberty)とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう」と記載されています。

 

注意すべき点は、外来語である「フリーダム」「リバティ」の和訳として日本語に置き換えられた「自由」と、仏教に由来する本来の「自由」とは同じではないということです。

 

まず外来語としての「自由」から説明します。

 

「フリーダム」と「リバティ」はほぼ同じ意味合いで使われていますが、その意味合いは微妙に異なっています。

「フリー」は古英語の「freo」に由来し「束縛や拘束がなく、義務を免除された状態」です。つまり「~しなくていい」ということです。

「リバティ」はラテン語の「libertas」が語源で「選択や行動・発言の権利が保障された状態」と説明されます。こちらは「~していい」という意味です。

 

どちらの語も「背景に束縛や制約がある」ことを物語っています。束縛や制約があることを前提に、「この範囲であなたの権利を認めますよ」ということなのです。フリーもリバティも元来は「特権」のことを指していました。

「自由」の反対に「束縛」、「権利」の反対に「義務」がある。さらに突っ込むと、世の中には「支配者と奴隷」「ルールを作る側と従う側」がいるということが前提になっています。

 

社会が成熟するにつれ、その中で必ず生まれてくる「権力」の維持のためにルールが利用されるようになります。「私は支配者、君たちは奴隷」といいだす人間がでてきて、ルールが支配の道具になっていきます。

支配者に都合よく作られたルールの中で、「ここからここまでは君たちの権利も認めてあげる」というのが「フリーダム」や「リバティ」の概念です。

私たちが教わってきたものは、そういう「自由」です。

 

では、仏教に由来する日本語本来の「自由」とはどのような意味なのでしょうか?

 

釈迦は、弟子たちに「自らを由(よ)りどころとし、他のものを由りどころとせずにあれ」と教えたといいます。つまり、「思考や行動の判断基準をほかの何者でもない、自らに置きなさい」ということ。

 

鹿児島の先輩 長渕剛さんの「STAY DREAM」中に、「尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある」という一節があります。

 

釈迦がいう縁起とは関係性のことです。私たちは常に何かとの関係性の中に存在しているのであり、その意味で縁起とは「がんじがらめの不自由さ」ともいえます。

その不自由さをしっかり認識して、自らの思考や行動の判断基準で考え吟味し、自らの意志であえてその不自由さに飛び込んでいくことが、仏教に由来する自由の意味です。

http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html

 

(つづく)

 

 

苫米地式認定コーチ                        

苫米地式認定マスターヒーラー     

 CoacH T(タケハラクニオ)