PMⅠ:The Power of Mind Ⅰ
PMⅠ-05:苫米地理論で見える教育現場のスコトーマ
PMⅠ-05-17:そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響
この章(第五章)では、苫米地理論(ベチロン)で教育を考察していきます。
そもそも教育とは?-7-2)(人間形成に作用する)すべての精神的影響
…この思想の背景には儒教的な差別思想があります。そして、教育者がこんな言葉を吐いたという事実には、とても大きな問題が潜んでいます。ディベートでいう「クリティーク(Kritik、K戦略)」です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6194585.html
「肯定側の推進する論理の背景もしくは前提にある哲学、思想、世界観、利用される用語などが望ましくないものであれば、肯定側のケースやプランの有効性にかかわらず、現実の世界では、肯定側のプランが採択されてはならないという議論」がクリティーク(K戦略)です。
つまりK戦略の基本とは「相手の前提となっている価値判断そのものを疑う」ということですが、今回のケースでいえば「『分をわきまえろ』と発言する教師の判断・行動の根底にある考え方(思想、哲学、世界観、ブリーフシステム等)が“おかしい”から、いずれにせよ、その進路指導はよくない」というのが私のK戦略的意見です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/5721531.html
第二章でも取り上げたとおり、釈迦の哲学は縁起であり、そのプリンシプルは「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」と「この世は心が作っている」です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353044.html
それを大乗仏教では「空」と表現します。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/6353367.html
仏教は中国経由で日本に伝わりました。すなわち、インドの釈迦を祖とする哲学が中国にわたり、儒教・道教と強く結びついて完成し、その後日本に伝わったものが日本仏教です。
当然、釈迦のオリジナルの哲学は“中国化”されています。
反論が多いかとは思いますが、その意味で「日本仏教は仏説ではない(釈迦哲学ではない)」といえます。仏壇にふつうに位牌があるのは儒教の名残であり、地獄や極楽を語るのは布教のための論理です。オリジナルの釈迦の哲学ではありません。
「この世に絶対(アプリオリなもの)はない」や「この世は心が作っている」という釈迦哲学のプリンシプルに対して、儒教のプリンシプルは「仁義の道を実践し、上下秩序を弁別する」です。
すなわち、「この世には初めから違いがある」「その違いに従え」というのが儒教システムの根幹であり、その正体は「無分別」を是とする仏説(釈迦哲学)とは決して相いれない差別思想です。
支配者や既得権益は、この論理を使ってシステムを強化してきました。
1603年にはじまった江戸幕府が、1867年の大政奉還まで250年以上もの長きにわたってシステムを維持できた背景には、武家層を中心とした(特に朱子学としての)儒教の定着があります。
そしてその取り組みは、忠孝思想が教育勅語に取り入れられるなど明治以降も続き、二度の世界大戦を経て再び強化されようとしています。
学校において「分をわきまえろ」という言葉とともに進路指導が行われる場合、たとえ教師自身が意識していないとしても、それは「私が医学部に行けと言えばちゃんと行け」という命令であり、「親も子も教師に従え」という恫喝です。
教育は「教え育てる」と書きますが、“教える”ものとは「自由」です。
そして、「生じる責任を承知の上で、自由に生きれる心を持つ人間」に“育てる”ことこそが、その真の目的です。
http://blog.livedoor.jp/coachfor_m2/archives/9034343.html
真の教育が行われる環境でこそ、「人間形成」が可能となります。
よって、「人間形成に作用するすべての精神的影響」とは、徹底的に差別を排除した社会から生まれるものであり、「無分別」を是とする釈迦哲学から始まるものです。
では、その教育が行われる場としての、家庭、学校、社会とはどのようなものでしょうか?
(つづく)
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苫米地式認定コーチ
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